| | | 山へ登りながら考える。 そういう時間をここ数年大事にしている。 山を登るというのは当たり前だが苦しい。 一歩、一歩、足を前に運びながら、「あと少し」「あと少し」と、足を止めたい苦しさと、前へ進みたい心を闘わせながら登っていく。 自分の呼吸が乱れるのを、リズムを意識して整える。 森の中だ。 苦しくて大きく息を吸い込むと、冷たく、草木の透き通った空気が肺の中へと入ってくる。苦しいはずなのに、身体が浄化されるような気持ちよさで、心を苦しさから喜びに変えていく。 水の音が聞こえる。 沢を流れる水の音だ。 そういう音を聞くと、沢に下りてその水に必ずふれる。 身体の芯までツ〜ンとくる冷たく、そしてまったく濁りのない水を口にも入れてみる。 「あぁ」と、ただ「あぁ」と心が声を上げる。 生き物は水なしには生きていけない。だからいい水に出会うと「あぁ」としか言葉がでないのだ。 崖がある。 ぼくが登りにいく山のは、崖には鎖が垂らされている場所がほとんどなのだが、何か崖を登るというのはいくつになってもワクワクしてくる。 崖を登り切ると、なぜか強く、そして偉くなったような気がして、ひとりニヤリと笑ってみたりする。 大きな木がある。 何百年、ときには千年以上いきた樹と出会うと、必ず触れ、苔に手のひらを置き目を閉じてみる。 そして樹を抱きしめる。 しばらく抱きしめていると、何か樹と会話している気持ちになる。 「なぁ」と千年以上生きてきた樹に問いかける。 「なぁ、勝道上人と会ったことあるかい?」 最近登る山は、勝道上人が開山した山を登ることが多く、そんなことを聞いている。 勝道上人が生きた1300年ほど前、勝道上人は何を考え、何を思いながら山岳修行をつづけたのだろうか。 まだ人の踏み入れていない自然の中を歩きつづけて、何を感じ、何を悟ったのだろうか… いや、修行は無限なわけだから、悟りも無限なのかもしれない。 修行で生きるにしても、生きることに「正しい」も「間違い」もない、自分が生きた道が自分の道だという、ただそれだけなのだと、そんなことを思い、考えながら登る。 頂上にたどり着くと、どんなに低い山でも幸せを感じることができる。 やめないで、あきらめないで、足を踏み出しつづけた、その一番高いところへたどり着いたという達成感がある。 それとともに、一瞬ごとに変化する水があり、樹があり、今、目の前には山頂からの風景が広がり、風を感じることができる。 出会いというものは、すべて同じ出会いはなく、この一瞬がそれぞれの出会いだったと、そんなあたりまえのことを山はいつも感じさせてくれる。 そしてここ最近、目を向ける山がある。 「今度はあの山へ登ろう」 先週も古賀志山へ登り、その山を見つめていた。 勝道上人が14年かけて登った聖山。 今年は春が来たら男体山に登ってみるか。 |
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