思い立ったら日記 2016



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2016年02月26日
2016年2月26日
 
「時間は命」とよくぼくは口にする。
この世の中、森羅万象「答えはない」と思っている。
だが、たったひとつだけぜったいの答えがある。
それは「生命は必ず死ぬ」ということだ。
だからぼくは「時間は命」と口にしている。
 
だが最近、その「時間」というものは「何だろう」と疑問を持ち始めた。
いったい「時間」とは何なのか…
 
そのきっかけは自分の感覚だ。
たとえば、自分が6歳から12歳だった小学生時代の時間と、今、60歳を前にして感じている6年間はまったく早さが違う。
 
調べてみると、ちゃんとした物理学者たちが「時間」とは何なのか研究していることがわかる。
ニュートン時間というのがある。
ニュートンの説による「絶対時間」。
今、ぼくらが「時間」と呼んでいる、何ものにも影響されず継続的に流れるものである。
それに対して、アインシュタイン時間というものがある。
「相対性理論」による時間だ。
それまで絶対的だと思われていたものが「相対的」に決まるという理論だ。
 
イヤな仕事をしているときは長く時間を感じ、楽しいこと、集中しているときは一瞬にして時間は流れていく。
そういったことが相対性理論となる。
 
「時間」という概念は存在しなく、脳と心が生み出しているという考えがある。
また、10歳を1の時間の早さと考えたとき、20歳では1.4倍の時間の早さになるという
物理学者の考えがある。
また、経験をすることによって時が短くなるという説もある。
つまり、0歳を1としたとき、10歳では10倍の早さ、60歳だと0歳児にくらべて60倍の早さになるという説だ。
だが、その感覚はたしかにあるのだ。
「時間」という概念は存在しなく、脳と心が生み出しているとなれば、だれもが違う時間の中で生きていることになるわけだが、年齢を重ねること、つまり経験を積むことで観察と判断で新たな情報、知識がなくなるだけ早くなり、時間を短く感じてしまうという考えには納得できる。
 
そうやって考えると「時間」というのはおもしろい。
つまり生命には「老い」があり「死」がある。
だから身体という物質てきなものは死に向かって歩いて行く。
 
だが「脳」と「心」は人によって「時間」の概念がちがってくる。
それは「濃い時間」と言われる、つねに全力で走り続けている時間を過ごすということは、身体が5年の歩きを見せているなか、脳と心によって生み出された人の5倍で走ることによって、生み出された時間はたった1年ほどしか経っていないと考えることだってできる。
 
100歳で死んだとしても、20歳の脳と心の時間で死ぬことができるわけだ。
 
ぼくは今、本当は何歳の「時間」で生きているのだろうか。

2016年02月01日
2016年1月30日
 
前回の日記で、“「心」に生きるためにデジタルを使う”と書いたもので、デジタル、つまりコンピューターによってどう世の中がかわってきているのか、自分なりに今回の日記で考えてみようと思う。
 
ムーアの法則からすると、今の時代の中心となっているコンピューターによって、その処理スピードが毎年2倍づつ進化していくことになる。
 
人間の進歩というのは、直線で右上がりにまっすぐに進歩してきている。
だが、今は間違いなく「加速的進歩」、それも恐ろしいスピードでそれが加速している世の中だ。
 
コンピューターによって加速しているデジタルは他の技術と結びつき、どんどん新しいものを生み出していく。
 
たとえばマンガだが、マンガというのは冊子でコマを割ったものだとだれもがすり込まれているわけだが、今はそのキャラクターたちが、押し込まれていたコマの中からキャラクターたちが飛び出し、あらゆる世界で活躍できる、それもすべてがぼくはマンガだと思っているし、マンガが時代とともに進歩していく必然の動きだと思っている。
つまりは、子どものころ、雑誌から鉄腕アトムが飛び出してきて、自分と会話ができたらという夢を描いていたわけだが、今の技術、キャラクターとAIをむすびつければそれは夢ではなく、実現可能になってくる。
人の進歩というのは、夢を描き、それを実現するという単純なことだ。
「こんな便利なモノがあったらいいな」と夢を描き、それを人間は考えて、考えて形にしてきた、それが進歩だということだ。
 
今、ぼくは大学にいるわけだが、大学へ来た9年前は大学でマンガを教えるということに対して、マンガなど大学で教えるものではないという考えだった。
マンガで生きたいのならば、大学など行かずにその学費で、バックパッカーで世界一周する方が遙かにマンガで生きる力を得ることができる。
 
ならば自分が大学へ来た意味を考え、ここで生きる忌みを考え、試行錯誤の中で、そのひとつとしてデジタルで研究し、新しい形のマンガの実験の場を創ってきた。
その研究の中のひとつ、4年前に3Dマンガを帝京大学の理工学部の先生と組んで研究してきたことが実を結びはじめている。
 
他の大学とどんどん組んで研究していく、「マンガ研究室」を大学という大きな枠で立ち上げることになった。
 
AIの専門に研究している大学と組んだり、ioT、アイビーコン、アプリ、アイコンと開発、研究している大学ともどんどん組んで、マンガを使って、つまりは新しい発明をしていこうというわけである。
マンガの力の凄さを、今、いろいろな研究の中であらためて感じているというわけだ。
 
今、世の中が変わってきたということに気づかなければならない。
時代の中でいくつもの職業が消えていっている。
そして新しい職業が生まれていっている。
それはぼくは当たり前だと思っている。
人はつねに進化する生き物で、止まっていれば時代に取り残されるのは当たり前のことで、加速的進歩によって、そのスピードが速まっただけのことだと感じている。
 
ただその加速が速まったことで、経済的に言えば、経済成長は生産性と雇用が平行で伸びていっていたのだが、2000年あたりから生産性の伸びに対して雇用が伸びなくなっている。
ロボットによって職が奪われる、つまりはテクノロジー失業というやつだ。
 
ならば考えてみよう。
汎用目的技術が今の時代で夢を実現できる力だと思っている。
あらゆる産業に影響をおよぼし、新たな発明を連鎖的に生み出す汎用目的技術。
そこから新しい職が生まれてくるはずだ。
 
ぼくもioTでのアイデアはいくつかもっているし、今もいくつか「進歩」として進めていることがある。
 
それともうひとつ平行して考えていることがある。
「進歩」というのは、人が便利になることで「幸せになれる」と信じてきた道だったと思う。
だが、ここへ来て、進歩が幸せかどうか、きっとだれもが考え始めているのではないだろうか。
 
ぼくは自然に戻ることも「進歩」だと思っている。
自然の中で生きるための「進歩」。
 
今年から動き出す研究所の、ぼく自身のテーマは「自然に戻る進歩」が軸と決めている。
その中で今の時代を「幸せに生きるか」考えていくつもりだ。

2016年01月12日



2015年12月30日
 
「人間は自然の一部です。自然になりなさい。自然に生きなさい」
 
もう15年ほど前、武術の取材で中国を旅し、武術家を訪ね歩いていたとき老武術家から聞いた言葉だ。
そう、人間は自然にいきなければならない。
 
自然の中で生きる大好きな詩人がいる。
加島祥造。
その加島祥造が言っていた言葉がある。
 
「水の流れというものは、とどまることがない。その流れを信じて身体を委ねていれば、溺れることなんてそうそうないんだ。それなのに、今の大人は、子供たちが溺れる心配ばかりしている。そして、小さなプールの中に閉じ込めてしまうんだ」
 
その通りだと思う。
人は自然に生きることを喜びとしてきた生命なのに、その自然に委ねることをせずに心配ばかりして、「便利」を求めて自然からどんどん離れた、「人間社会」といった閉じ込めた世界で生きているように感じている。
 
2015年の気づいたことがある。
デジタルというものは、まさに自然から遠ざかっていく象徴のように思っていた。
だが、「それは違う」と感じ始めた一年だった。
 
自然の中で生きるというのは、もう、何年も、何十年も前からの夢だった。
「山と海に囲まれた地で、絵を描き、音楽をやり、できれば自給自足で生きられたら」
そんな夢をぼんやり考えていた。
 
都会には、いや、街にある自然というものは、ほとんどが人工的な作られた「公園」を自然と言っている。
人間は「便利」ということを、幸せになれることだと信じてここまでやってきたようだ。
最近も、大好きな石裂山の山道を、車が通れるように樹齢何百年の樹を切り倒し、道を作っている。
人間は自然だというのに、「便利」ということだけで、その自然を壊している。
樹齢800年の樹を切れば、その自然を元に戻すのに800年かかるということを考えないのだろうか…
いや、生命というのは同じものは創れないから、人は「便利」という理由で自然を殺している。
 
人には自然は創れない。
なのに人は「便利な自然」を創るために開発する。
 
この「開発」というのは、人が自然を殺してしまうということだ。
だが考えてもらいたい。
人が自然なら、人が中心ではなく、「自然が中心」で、人はその中で生きているということだ。
 
デジタルというのは、ioTで考えればよくわかると思うが、「開発」ではなく、「サービス」が中心になっている。
アップルやGoogl、アマゾンなど、今、世界を動かしているものはサービスだということだ。
つまり、道を作って開発しなくても、自然の住んでいる場所から世界へ発信(サービス)できる技術ということだ。
マンガ家でいうと、ぼくらの時代は東京へ行かなければ発信ができなかった。
だが、今はどんな山奥だろうと発信できるプラットフォームを自分で持てる。
 
自然の中で、自然と一体となった中で、ちゃんと世界中の人に「作品」を届けることができるわけだ。
 
2015年の気づいたことというのは、「心」のことだ。
人の幸せというのは「便利」ではなく、「心」だとぼくは思っている。
デジタルでは「心」はぜったいに創れない。
ぜったいに創れないから、デジタルは自然と対局の存在だと思われている。
 
だが、こう考えてみたらどうだろう。
デジタルでは「心」は創れない。
その「心」で作品を創りたいから、その心を創るために、たとえば海に、山に、森に、世界中を旅しながらでもいい、自分の心が求める場所で生きることに集中し、その他のデジタルでできる雑用的な作業はデジタルに任せるといった考え方だ。
 
「心」に生きるためにデジタルを使う。
 
人が便利な「自然」を開発するのではなく、「自然」の中で生きるためにデジタルを使うということだ。
 
ぼくは今、きっと自分の年齢からいって最期の大きな夢が動いている。
自然の中で生きる、「創造の街」を創ることだ。
きっと2016年は今年より、もっと本気で生きることになると思う。
そうしようと、決意もこめてこの日記を書いている。
 
この日記を書きながら思ったことがある。
スティーブン・ジョブズは「禅」に惹かれていたというのは有名な話しだ。
ジョブズもデジタルによって、「心」を中心に生きることができるということに、きっと気づいていたのだと思う。



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