| 24歳のときミュージシャンに見切りをつけ、京都の事務所を辞めて後にカミさんになる彼女と東京へ出て来た。 当時、何の充てがあったわけではない。 生活費は彼女の生活保険。 そしてぼくにできることは18歳の頃漫画賞の佳作を取った絵を描くことだけ・・・ サンプルの絵を毎日何枚も描き出版社へ持ち込んだ。 そして仕事が少しながらも舞い込んできた。 イラストレーターとしての始まりである。 雑誌のカット、イラスト、小説誌の挿絵と何でもやった。 中でもスポーツのイラストを描くことが楽しかった。 |
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| スポーツのイラストを描くための取材スケッチでは、練習風景、グランド、控え室とスポーツ選手を身近で見ることができた。 表へ出るために彼らが何をやっているか・・・その研ぎ澄ましていくための時間の重さと濃さを目の当たりにして、それを描きたいとその思いが大きくなっていく。
絵にストーリーを付けたスポーツノンフィクションを描かせてほしい。 そのぼくの希望をひとりの編集長が叶えてくれた。 「相撲」のS編集長である。 |
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| 毎月10ページほどの力士の歩んできた道を、生き様を描く連載を当時月刊誌としてスタートさせたばかりの「バンバン相撲界」で連載開始。 ぼくはスケッチブック、テレコ、カメラを担いで相撲部屋へと出向いていった。 早朝の稽古から取材の力士に密着して話しを聞き、スケッチをし、資料写真を撮る。 ちゃんこをいっしょに食べさせてもらい、ときには部屋に泊めてもらったこともある。 とにかくこの仕事は楽しかった。 これがぼくの今の基礎を作り上げた仕事となったわけである。
文章を書き、絵を描き、写真を撮ってイラストストーリーを仕上げていく。 そんな中、小さな記事だが取材で出会ったスポーツ選手のことをGORO、週刊プレーボーイなどで文章だけを書かせてもらえるようになっていった。 ライターとしての始まりだった。 |
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| そしてぼくにとって大きな出会いがあった。 ボクサー、浜田剛史。 当時、左拳を骨折し2年のブランクから復帰を目指していたボクサーである。 なぜだかわからないが、復帰戦に向けて後楽園ホールのリングでスパーリングを見せたとき、ぼくはこの男は世界チャンピオンに必ずなると思いこんだ。 次ぎの日には浜田剛史の所属する帝拳ジムへとぼくは向かっていた。 週に4日はジムで浜田の練習を見つめ、そしてその姿を写真に納める。練習後に喫茶店へ行き話しをし、たまにいっしょに食事をする日々。 後に浜田が、「この人何を考えているんだと思いましたよ。後一試合だけでもリングへと上がれればいいと考えていた自分に向かって、世界チャンピオンへの道を描きたいなんて言ってきたわけですからね」と、今は二人の笑い話として語り合っている。 |
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| そして、この浜田がリングで勝ち続けることで週刊プレーボーイ、月刊プレーボーイ、Nunber、GORO、スコラといった、カメラマンがなかなか撮らせてもらうことのできない雑誌のグラビアで、ノンフィクションの文章とともに、写真を載せさせてもらうようにとなっていった。 つまりは週に何日も、そして何年も密着してくれるようなカメラマンなどいるわけなく、好きで高校時代から趣味で現像もこなしていたカメラを持って撮っていた写真がいつしかグラビアとなっていったというわけである。 カメラマンとしてのはじまりだった。 |
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