| 当時、ミノルタカメラのプロ担当のS氏があらゆる機材を貸し出してくれていたこともぼくにとってありがたかった。 何せ、600ミリのレンズなど100万もする機材で、ミノルタがバックアップしてくれなければ、グラビアに載せるだけの写真など撮ることはできなかったはずである。 フイルム何千本と撮り続けることで、写真の技術的なことを覚え、いつしか自分なりに、納得の写真が撮れるようになっていった。 |
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| そして浜田剛史の世界タイトル奪取。 浜田の夢がいつしか自分の夢になっていた・・・ その夢が叶った瞬間だった。 その日の深夜、浜田からの電話・・・ふたりでいつまでもその夢を噛みしめながらこの二年間を語り合った。
当時、もうひとつ嬉しい夢の到達があった。 高校野球で、秋の新人戦から密着していた天理高校が夏の甲子園で優勝し、甲子園のグランドに下りると、選手たちが飛びついてくるや抱きつき、ぼくもそんな選手たちと歓喜で抱き合ったことである。
ぼくのスタイルは決まっていった。 |
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| 長く同じ時間を共有し、同じ空気を吸い、苦しみも喜びも真正面から見続け、そこから出てきたものを形にするという創り方。
写真を撮り、そして長い時間で言葉を交わし、時にはその選手の今から挑んでいく試合のポスターもイラストで手がけさせてもらう。
写真と文と絵・・・
それがぼくのスタイルとなった。 |
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| そんな中、ノンフィクションの仕事で、文ではなく劇画の原作としてやってほしいという依頼があった。 劇画原作のはじまりである。
ノンフィクションだけではない。 取材をしている中で、いろいろなフィクションが頭の中で広がっていく。 いつしか劇画作家として週刊連載の漫画も手がけるようになっていった。 いきなりの週刊連載が、週刊少年ジャンプの連載である。 |
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| そのころ、イラスト、写真、ライター、劇画作家の仕事がそれぞれ単発で入ってくるようになった。 依頼してくる編集はイラストなら、ぼくはイラストレーターだけを仕事としていると決めての依頼である。 当時、イラストを描き、写真を撮り、文章を書き、劇画の原作もやるといったら、すべての仕事が片手間だと思われかねない時代だったこともあって、ぼくはイラストレーターだと仕事を依頼してくる編集にはイラストだけを描き、カメラマンなら写真だけを撮るという仕事の受け方をしていた。 それで仕事が来ることがプロとして片手間でイロイロやっていないことの証明になると思ったからだ。
よく編集に「同姓同名のカメラマンいますよね」「イラストレーターいますよね」 「劇画作家いますよね」と言われ、ぼくはだまって頷いていたもんだ。 実は今でも、ひとつの分野だけでぼくがやっていると思っている編集がたくさんいる。 それはそれで今でも黙って仕事を引き受けようよ決めている。 |
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