| | | Bob Dylanを聴きながら久しぶりの日記を書いている。 あぁ、そうだった。 この日記、今年、2013年になって始めて書く日記なんだよね。 まぁ、ともかくこうしてDylanを聴いていると、大学時代を思い出すわけだ。 学生下宿で安いブルーチップを貯めてもらった安いレコードプレーヤーで、時給300円のアルバイトをして貯めた金で買ったBob Dylanのレコード。 あのときぼくはいつもカリカリして Dylanを聴いていたんだ。 力がないこともあったし、自分という存在の小ささに、とにかくいつもカリカリしてDylan聴いていてね。 そう、お金がまずなかった。 つまりお金がないということで、お金に縛られることがとても不自由と感じていて… それは不安というヤツが、つまりは一番が「生活」なわけで、その生活に縛られている自分にカリカリしてたんだよね。 だから、「自由」って何だろうといつも考えていて、いつも追い求めていて、そこでLike a rollig stoneなど聴きながら、Bob Dylanがギターをかき鳴らしながら叫ぶ魂が、何か自由の象徴のように感じたんだ。 あれから37年も経ったというのに、実は今も「自由」っていうヤツを追い求めている自分がいるんだ。 今、大学にいることで、研究室でよく学生たちとディスカッションをしているわけだが、あいかわらず青臭く、熱く、ときには酒を飲みながら本気で語り合っている。 「自由」について、少しだけ、ぼくは「こう思うんだ」ということをちょっと書きたくなったので、書いておくか。 この世のすべて、「答えなど無い」ことはもうずっと昔から知っているんだ。 だけど「答えが無い」からこそ、無限に考えつづけてる。 考えることをやめたり、諦めたときは、青臭くさい言い方だが、「自由」を諦めることだと思うんだ。 世の中に生きていたら、「常識」という自由を奪うものが正義とされているもんで、その常識という正義と闘わなければならないと思ってる。 そうだろ、「常識」というヤツは、だれも同じ目盛りの付いた定規で計られて、だれもが同じ基準で正しいこと正しくないことが分けられてしまう。 でも、人はすべて同じではなくて、それはそれぞれが「自分の目盛り」を持っているはずなんだ。 いや、そもそも人の定規に目盛りなどあるわけないからね。 なのに、みんな同じ形で、その形から外れたものは正しくないと言われるからね。 もっと言えば、「常識」の中からは自由なんて生まれないとぼくは思ってるんだ。 新しいことというヤツは、つまりは「常識」にないから新しいものと言われるわけだろ。 「常識」の外でしか新しいもの、そう、自由はないと思ってるんだ。 でもこの「常識人」がやっかいでね。 常識人たちは、「常識」これが人のルールだと、自由を生みだそうとすると、「常識」にないから、「非常識」って潰しにかかってくるからね。 だから「自由とは逃げないこと」なんだ。 勝ち取らなければならないものだと思ってるんだ。 「勝ち取るってどういうことか?」と、ここでディスカッションなら学生から突っ込みが入るだろうな。 でも、それを考えることが「自由」から逃げないことでもあると思うんだよね。 そう、こうやって考え、語り合うことが、諦めたり、逃げたりしないことだと思うんだ。 この世のすべて、「答えなど無い」ことはもうずっと昔から知っているからね。 だから語り合う。 もちろん学生に限ったことじゃない。 ちばてつや先生とは車の中で、ぼくはこれ以上の至福はないと思える語り合いの時間を今も持てているし、作家仲間、高円寺の仲間、仕事仲間、悪友たちと、何かいつも語り合えてるしね。 そうやって語り合うことが「自由」を追い求めることだと思うんだ。 おっと、 Bob Dylan's Greatest Hits, の Disc が最後の曲が終わろうとしているので、日記を書くのもこのあたりで、自分の原稿に戻らなきゃ。 |
|
| |