あの頃ミュージシャンだったような思い出(完結)



トップへ
戻る
次へ

18歳のとき、突然としてレコードを出すという話しが持ち上がった。
大学の授業で高校時代に作った曲を生まれて初めて人前で歌ったのがきっかけだった。
その授業をやっていたのが三浦久先生で、大学で英語を教えるとともに、シングル、アルバムと何枚もレコードを出しているプロのフォークシンガーだったのだ。
その三浦先生の紹介で、先生の所属していた事務所に入ることになった。

当時事務所には、あのねのね、河島英五とホモサピエンス、タンポポ、ナック、駿河学(笑福亭鶴瓶)などが所属し、やしきたかじん、尾崎亜美も出入りしていた。

当時ぼくは少年ジャンプで賞をもらい担当編集も付いて、大学へ行くより漫画家になるべく下宿で必死に作品を描いていたときである。
覚悟のないままぼくはミュージシャンになった。

いきなり九州の佐世保へ連れて行かれステージに立った。
そのときのステージは、メジャーデビューを前にした河島英五とホモサピエンスがいっしょだった。
英五さんもぼくも前座だった。
ライブにあまり興味のない客たち。
メインは「冒険者たち」という映画なのだ。
事務所のスーパースター「あのねのね」の主演する映画。
客はその「あのねのね」のファンたちだ。

覚悟もなくミュージシャンになってしまったぼくに、初めて出会った英五さんは黙ったままだった。

デビュー当時に使っていたギターはS.yairi YD-404で、その後Martin D-35を買った。
その二台とも未だ手元にあり、そして現役の音を今も出してくれている。

英五さんからはプロになるとはどういうことかを教わった気がする。
すべてが音楽で生きているという毎日。
当時ぼくが作った曲で、ステージで歌えるレベルのものは10曲もなかった状態で、英五さんは何百曲と持っていた。
その何百曲は何千曲と作った曲の中の何百曲である。

ある日、英五さんがぼくに声をかけてきた。
「かいくん」(当時、“あさもりかい”という漫画のペンネームで使っていた名を、そのままミュージシャンとしても使っていた)
「曲を創っているか?」
ぼくが「思うように曲が書けません」と言ったときだ。
「ぼくは曲を創るときは断食して、好きなコーヒーもやめてるんだ」
「自分を追い込んだとき、人間ってけっこうやるもんだぞ、悠長に構えていたらいつまでたっても曲などできないものだ」
厳しい言い方だった。
まだ音楽で生きるという実感の気薄なぼくに対して怒りを感じての言葉だった。
そして英五さんは「オレの家へ来て、合宿しながら曲を書いてみるか」とぶっきらぼうに言ってきたのである。

英五さんの創った「酒と泪と男と女」がヒットしはじめていたころのことである。
その頃に英五さんのマンションに泊まり込みで曲創りの合宿を行った。
曲創りの合宿といっても、部屋へ閉じこもってただ曲を創るというのではない。
英五さんが自分はどうやって音楽を生み出してきたかというのをぼくに見せて回るといった、ただそれだけである。
英五さんはぼくをマンションから歩いて近くの瓢箪山へ連れて行った。
小さな森があった。
川があった。
田園があった。
そこを歩きながら、この場所でこういうことを思い、そして出てきたものがこの曲だと英五さんは大きな声でアカペラで自分の曲を歌いながら歩いていった。
曲は小手先で書けるものではない。感じてこそそこから生まれるものだと、そう教えてくれた。
そして感じて曲を生み出すということの苦しみと喜びを語ってくれた。
ぼくも瓢箪山を歩きながら英五さんに自分のことをいろいろと話した。
その話した中に、子供のころ教会へ行っていたことがあった。
マンションに帰って英五さんは曲を書き始めた。
「かいくんにピッタリの曲ができたぞ!」
英五さんがそう言って相好をほころばせ、ぼくの前でギターを弾きながら歌い出した。
“ゴルゴダの丘”という曲である。



トップへ
戻る
次へ