あの頃ミュージシャンだったような思い出(完結)



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合宿が終わり、英五さんのマンションを後にしようとしたときである。
「プレゼント」
英五さんはぼくに一本のカセットテープと、何か書いた数枚の用紙を差し出してきた。 
「気に入った曲があったら歌ってみろ」
英五さんが自分の曲を吹き込んだカセットテープだった。
それも60曲近くも吹きこんである。
この合宿中に英五さんがテレコを前にして歌っていたのは、ぼくにこのテープを渡すためだったのだ。
そして数枚の用紙にはその曲すべての歌詞と、そしてコード進行が書かれてあった。
それを受け取り声にならなかった。
「ありがとうございます!」という言葉以上の表現方法がない・・・
だから、ただ深々と頭を下げる以外あのときのぼくにはできなかったのだ。
「がんばれよ」
ぼくの背中に向かって英五さんの声が響く。

“ゴルゴダの丘”、“スケッチブック”、“子供ならもっと高い山に登りたがるはずさ”、“流れ星とまれ”・・・
必死になって英五さんからもらったテープを聴きながらの練習が始まった。
プロとは何か・・・
いや、英五さんがぼくに向けて投げ込んでくれた気持ちに答えることが、それがプロへとつながる道となっていく。
漫画をやりながら音楽をやるなどといった甘い考えはそのとき消えた。
この合宿によってぼくの覚悟は決まったのだ。

「裏方を手伝ってみるか?」
事務所の社長が言ってきた。
スタッフをやることによって顔を売っておく。
つまりはこういうことだった。
事務所で一番売れている「あのねのね」の現場を手伝うことによって、TV,ラジオのディレクターに顔を覚えてもらい、そうすればデビューしたときチャンスが多くなる。
ぼくもその提案には好奇心があった。
「あのねのね」は高校時代いつも深夜放送で聞いていた。
そのころ、吉田拓郎、諸口あきら、イルカ、笑福亭鶴光、そしてあのねのねのオールナイトニッポンを聞かなければ次ぎの日の高校でのクラスの話題の中へ入っていけないといった時代である。
もちろんTVでも見ていた遠い存在でしかなかった「あのねのね」。
その「あのねのね」と仕事ができるということに好奇心が沸いたことで、ぼくはその提案に乗ってしまった。

だがそのことが、覚悟を決めたはずの音楽から遠のいてしまうことになるとは思ってもみなかった。

昔のアイドルがよく当時の記憶がないと言っていることがある。
あれはアイドルだけのことではない。
そのアイドルに付いているスタッフだって記憶が飛んでいる。

「あのねのね」に付いたのは約一年である。
現場はぼくひとりだけ。
早朝から当時青山に住んでいた二人のそれぞれのマンションへ迎えに行くことから始まる。
そして一日のスケジュールを告げる。
月〜金まではTV,ラジオがレギュラー中心にすべて埋まっている。
その現場はすべて付き添い、夜二人をマンションへ送り届けると、今度はTV局、ラジオ局、有線を皿まわしといってレコードをかけてもらうために回っていく。
ときに雑誌社も宣伝で回る。
深夜だろうと関係ない世界。
企画が持ち込まれると、それを持ち帰り事務所のスタッフに告げる。
つまり寝る時間もなくスケジュールをこなす「あのねのね」以上に睡眠など取れない毎日である。
土、日は全国を回るライブが入っていて、ちゃんと布団の中で寝ることができていたのはそのライブで泊まった地方のホテルだけだった。
 
今思い出すのは単発な記憶だけ。
いつも「おはようございます!」の挨拶。
当時のレギュラー、「うわさのチャンネル」は日本テレビに12時間拘束だったこともあって、そのときの楽屋、Hスタジオの風景は覚えている。
日本テレビのTディレクター、ニッポン放送のMディレクターの顔と声・・・
また紅白歌のベストテンの渋谷公会堂の袖で、デビューの日だったと記憶しているが、懸命にふたりで振り付けの練習をしていたピンクレディーの姿。
TV局、ラジオ局で会ってもいつも疲れた顔のキャンディーズの三人。
そういえば、ヤングoh,ohの仕事で羽田から伊丹に向かう飛行機の中で、山口百恵さんが隣に座り会話をしたこともあった。
オールナイト・ニッポンでのあのねのねの原稿を書いていたのは当時放送作家だった景山民夫さんで、景山さんはギターがうまく、よくふたりでニッポン放送の空いているスタジオでギターを弾いたという楽しい思い出もある。
正月、20度の沖縄でロケをやり、夜には氷点下の札幌ロケだったこともあった。
「あのねのね」のメンバー、伸郎さん、国明さんと毎日会話していたはずなのに、その会話の記憶がほとんどない。
いったいあのとき何を話していたのだろうか・・・

その時代、京都でスタッフと飲んだときに、名曲、「夢ひとついらんかね」の曲を出したばかりのやしきたかじんさんが合流し、そしてたかじんさんに言われたことがある。
「おまえアーチストのくせに何やっとんや!アーチストは裏なんて知る必要ない、そんなんスタッフの仕事や」
「アーチストなら創らんかい!ええもん創らんかい!」
突き刺さった。
もう何ヶ月も曲など創っていない・・・ギターさえも弾いていなかった。
ぼくの中で英五さんからもらった曲までもが死んでいた。

武道館まででスタッフを辞めると決めた。

当時「あのねのね」は武道館公演に向けて動いていた。
外タレ以外で武道館公演をやるアーチストなど、ほとんどいなかった時代での武道館である。
すぐにでもスタッフを辞め東京を出て行きたかったが、とても武道館公演が終わるまで現場を離れられる状態ではない。
小さな事務所ゆえのスタッフの少なさ。
そのひとりであるぼくが抱えている現場の状態は半端じゃなかった。
武道館公演が終わったあと、国明と伸郎が初めてぼくに「ありがとう」という言葉をかけてくれた。
二人から礼を言われたのは一年付いて初めてのことだった。
そして「もう少し頼めないか」の社長の言葉を振り切ってぼくは東京を出て行った。
ギターさえ弾く時間のないスタッフとしての東京での毎日からとにかく逃げたかったのだ。
京都へと戻る新幹線の中で、ギター胼胝(だこ)の無くなってしまった左手の指先を見つめながら悄然とした思いで、一年前に英五さんが言った「がんばれよ」の言葉を思い出していた。

今、TVを見ていて、あの頃の思い出とともに人の運命を感じることがある。
今や大人気のタモリだが、ぼくが「あのねのね」に付いていた当時、事務所と日テレ、ニッポン放送がもめた事件があり、うわさのチャンネルとオールナイトニッポンを突然降板するということがあった。
そこで急遽、「あのねのね」の穴埋めとしてこの二つの番組に当時無名のタモリが起用され、そしてこの二つの番組でタモリは大ブレークをしたのだ。
もしあのときあの事件がなければ今のタモリはあったのだろうか・・・
また当時、原田伸郎に対してNHKを含め、各TV局からドラマ出演の依頼がいくつもあったのだが、本人には伝えず事務所はその出演以来をすべて断っていた。
あのとき原田伸郎が役者をやっていれば、その後いい役者になったように思えてならない。

京都へ戻ってきて住んだのは、一乗寺という町にあった1DKの鉄筋のアパートだった。
アパートの名は「YAMAMOTOハイツ」。
部屋の表札は「清水」となっている。
つまりこのアパートを最初に借りたのが清水国明で、京都はアパートを借りるときに保証金が高いため、金のなかったぼくは「清水」になりすましてその部屋へ引っ越してきたというわけである。
ぼくだけじゃない。
このアパートに「清水」として住んでいたのは、原田伸郎、そして駿河学(笑福亭鶴瓶)もいつも入り浸っていた部屋だ。また後に柳ジョージとレイニーウッドでベースを弾いていた、当時同じ事務所のミッキー・ヤマモトさんもぼくの住む前に住んでいた。
今も当時のまま一乗寺の町にあるYAMAMOTOハイツ。
ぼくはこのアパートから、今度こそミュージシャンとして生きようと決めた。

そしてぼくはツアーに出ることになった。
河島英五の全国ツアーに前座として30〜40分のステージをやらせてもらえることになったのだ。
北は北海道から南は沖縄久米島までの86ケ所。
英五さんと、マネージャーのIさん、照明の大井さん、そしてぼく。音響のスタッフはトラック移動なので、4人で全国を回る旅・・・ぼくにとってミュージシャンだったような日々の中で、最高の思い出として残っている旅が始まった。



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