あの頃ミュージシャンだったような思い出(完結)



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たしかに思い出したくないことはある。
だがそれ以上に、「ぼくがミュージシャンだったような思い出」の時代にやさしさと魂を持った何人もの人たちと出会ってきた。
そして青春があった。

あまり書かなかったが、タンポポの三代さん、保志子さんとの思い出もたくさんある。
「嵯峨野さやさやコンサート」に、直指庵の庵主様をぼくが東京へ連れて行くことになり大変だったことや、金沢にタンポポの仕事で行ったとき、雪で電車にとじ込められ、その雪の多さに三人で驚きとともに、どこか楽い気持ちで降り積もった雪を見ていた白い夜があった。

あのねのねの国明さん、伸郎さんとの思い出だっていくつもある。
国明さんが、当時アイドルだったアグネスチャン用に作られた曲に詩を付けてほしいと頼まれ、ぼくがその詩を取りに行くと「田中、この曲長すぎないか?」と言われ、見ると、「清水さん、間奏まで詩を付けてますよ」である。
「どうりで長いわな」と、だがその後、「これで出してみるか」と笑いながらその詩をぼくに差し出した国明さんの悪戯小僧の顔がある。
伸郎さんとも「田中、今日はふたりで語り合おうやないか」と、コンサートの後食事に誘われ、入った店が蟹の店だったことから、「何や、あまり語れへんな」と、ふたり黙々と「ホント語れません」と、蟹を食べていたこともあった。
スタッフのIさん、Nさんにはよく飲みに連れていってもらい、Sさんには家に招かれ家庭料理をごちそうになったりもした。

英五さんとのツアーの最中、照明の大井さんとは「せっかく天草に来たんだから」と、レンタカーを借り、ふたりでやさしい気持ちで眩しく光る海を見ながら移動したこともあった。

東大阪の英五さんを通して知り合った、大橋くん、中井くんたち仲間ともいくつものバカをやって、かけがえのない友人となっていた。

事務所を辞める間際にも、今、舞台音楽やプロデューサーをやっている柄崎くんともよく京都の街をうろつき、ふたりでライブをやったりもした。

ギターリストのノーマンとは今でも交流があり、つい最近も三浦先生の辰野のライブハウスでライブをやっている。

そして・・・英五さんがいた。

ぼくがミュージシャンを辞めた後も、英五さんは心配して突然のように電話をかけてくれていた。
「何やっとるんや?」「がんばれよ!」「メシでもいっしょに食わんか」
英五さんはいつも励ましと勇気をくれていた。

単行本が出せるようになり、「今度、贈呈本送りますよ」と英五さんに言うと、「本屋でかい君の本見つけて買うほうが楽しいやろ」と言ってくる。
社交辞令ではない。
「今日、かい君の本、本屋で見つけたから明日からのツアーの電車の中で読ませてもらうで」
本当に英五さんは本屋でぼくの本を買ってくれていた。
そして「おもろいやないか!」と、また突然の電話である。
ぼくも東京近辺で英五さんのライブがあるときは聞きに行き、そして楽屋へも遊びに行った。

そうだ、こんなこともあった。
ぼくが仲久晃央の名で「ビクトリー・ラン!」というサッカー漫画を少年誌で連載していた時期である。
いつもの突然の電話だ。
「かい君、今、オレの隣にだれが居ると思う?」
ニタニタと自慢げな声である。
英五さんが、「感動するぞ!」と電話に出てきたのは当時のサッカー界のスーパースター、武田修宏である。
だがぼくは武田とは彼が高校を卒業したときに取材したことから、当時はプライベートでもメシを食べにいく仲だったのだ。
「あれ、田中さんじゃないですか」
武田の言葉に、英五さんは「何やおまえら友達なんか!?」と、つまらなそうに電話を切ってしまった。
英五さんはぼくが狂の付くサッカー好きと知ってて驚かすつもりが、肩すかしを食ったというわけである。

それから数日後、ぼくの尊敬する漫画家のちばてつや先生の家で恒例の餅つき大会があったときだった。
先生の家に招待されているぼくの横にあった電話が鳴ったのだ。
ぼくが「ちばです」と電話を取ると聞き慣れた声である。
「英五さん?」
ぼくが言うと、「何でかい君がおるんやねん」と、英五さんの驚きの声がする。
「いや、招待されているもんで・・・」
ぼくがそう言うと、「何でかい君は、いつもオレが知り合う人の後から付いてくるんや」と言ってくる。
「いや、武田もちば先生もぼくはずいぶん前からの知り合いなもんで・・・後から付いているわけじゃないのですが・・・」
「そやな・・・でも何か悔しいやないか!」

こんなことにまで英五さんは負けず嫌いだった。

ぼくがものを書くようになって・・・いや、書くことの根底には英五さんがいた。

「ぼくは曲を創るときは断食して、好きなコーヒーもやめてるんだ」
「自分を追い込んだとき、人間ってけっこうやるもんだぞ、悠長に構えていたらいつまでたっても曲などできないものだ」

英五さんと出会ったころのこの言葉はぼくの当時付けていた日記に書かれている。
そしてこの言葉は、音楽に見切りをつけ、ものを書き始めてからもいつもぼくの心にあった言葉だ。
そして生き様がある。

物書きになり、ぼくはいつもそのためだけに生きている人間を書きたいと、ぼくもそうなりたいと思ってきた。
ぼくが飯泉健二という、網膜剥離でリングに上がれなくなりながらも、リングに上がることだけを考え、網膜剥離になる前と同じ鍛錬の日々を10年続けたボクサーのことを書いた「拳雄たちの戦場」の中の一文がある。

すべてボクシングの男だった。
リングの上、ロードワーク・ジムワークだけじゃない。
食べることはボクサーとしての身体を造ることと考え、眠ることはボクシングのために身体を休めること。目を覚ますことはボクシングをやるため、脱糞、放尿はボクサーとしての体重維持。
息をすることさえも、すべてボクシングのためだと考えていた男である。

英五さんはそれが歌だった。
息をすることさえも、すべて歌のためだと考えていたあの姿。
その生き様をぼくは英五さんから見せつけられた。
十代後半から二十代前半・・・生きるという本当の姿を、魂をあの時代に見せつけられたのだ。

2001年4月16日・・・
突然の悲報が飛び込んできた。
「ここ何年か英五さんに会ってないし、東京の近くでライブがあったら行くよ」
英五さんのバックでギターを弾いていたノーマンに、そんなことを言っていた矢先のことだった。

英五さんがいなくなった後、思い出す場面がある。

英五さんのツアーで歌わせてもらっていたときの楽屋での風景・・・
たしか東北を回っていたときだった。
「気持ち悪いだろ」とアルマジロの姿そのままに弦を張った楽器を見せられときだから、英五さんがペルーから帰ってきてすぐの頃である。
ぼくは楽屋で自分のギターの弦を張り替えていた。
英五さんは声を張り上げ同じ楽屋で新曲の練習だ。
ぼくの弦を張り替えている手が止まる。
英五さんの歌う初めて聞く曲にぼくは引き込まれてしまったのだ。
歌い終わると「どうや、ええ曲やろ」とぼくに聞いてくる。
「いい曲ですね」
ぼくは感動していた。
「今日のステージで歌ってみるか」
英五さんが嬉しそうに納得の顔で笑った。

君が悲しみに 心閉ざしたとき 思い出してほしい歌がある
人を信じれず眠れない夜にも きっとわすれないでほしい
生きてりゃいいさ 生きてりゃいいさ そうさ生きてりゃいいのさ
喜びも悲しみも立ちどまりはしない めぐりめぐって行くのさ
掌を合わせよう ほら温もりが 君の胸に届くだろう・・・

その歌をその日のステージで英五さんは心を込めて歌っていた。
「生きてりゃいいさ」という曲だった。

涙が流れた。

ぼくの頭の中であのときの英五さんのステージでの歌はつづいている。

君にありがとう とてもありがとう もう会えないあの人にありがとう
まだ見ぬ人にありがとう 今日まで僕を支えた情熱にありがとう・・・

たった五年間少しの「あの頃ミュジシャンだったような・・・」いや、「あの頃ミュージシャンだった思い出」があった。
あの日があったから、あのとき出会った人たちがいたから間違いなく今のぼくがいる。

あの日のみんなにありがとう!
あの日のぼくを支えた情熱にありがとう!

そして、もう会えないあの人に・・・本当にありがとうございました。
“あさもりかい”こと

                   田中誠一

(「あの頃ミュージシャンだった思い出」のその後は、worksの中の「今日までそして明日から」へとつづいています)



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