| | 1910年1月2日
2日、いつものように、いつもの場所へ夕陽を見にやってきた。 カミさんとの初詣はこの場所へやってくることに、どこか自分で決めている。
長く生きてくると、世界中にいくつか自分の好きな「場所」というものができてくる。 毎年何度か行く「場所」もあれば、一度しか行ったことのない地球の果ての場所もある。
江ノ島の稚児ヶ淵は、もう数え切れないほど、年に何度もやってくる「場所」だ。 ここから見える夕陽は、何度見ても敬虔な気持ちで、海と太陽のエネルギーに包まれる、自分にとっての、最近よく使われる言葉だが、パワースポットになっている。
その稚児ヶ淵のある、奥津宮で初詣を行い、そして海と夕陽を見つめた一日となった。
雲ひとつない真っ青な空。 正月の江ノ島の辺津宮は大混雑だったが、奥津宮、稚児ヶ淵まではやってくる人は少なく、静かに海と対峙することができた。
不思議なもので、ただ海を見つめていることで、海がいろいろな思い、記憶を引き出してくる。 子供の頃の海の町で育った、あの海を前にした感覚が、身体の奥底からいくつも浮き上がってくる。 いや、生きてきたすべての思いと感覚だ。
映画、「八月の濡れた砂」を見た十代のころの感覚、自分の作品でも、この場所(湘南)を舞台にいくつもの作品を書いたときの、作品ごとの思いと感覚・・・ (考えてみれば、自分の作品には何と、江ノ島が出てくることか)
その始まりが、田舎の映画館で「八月の濡れた砂」を見て、ロックの臭いのする江ノ島に憧れたことが思い出されてきた。 そうか、あのとき江ノ島に惹かれたのも、「八月の濡れた砂」の中で、大人に対する反発と破壊。 そのもがきの中での恋愛とSEXがたまらなく自分の心を揺さぶった、その象徴としての江ノ島だったということか・・・
日記を書きながらまたいろいろなことを思い出し、見えてきた。
前日の日記といい、どうも自分の感覚が1970年の原点にもどっている気がする。 その原点の仲間たちとの、なぜかまた出会い、集まってきた昨年の不思議さ。 それを考えると、たしかにそうとうおもしろい一年になるかもしれない予感が沸いてきた。
2010年の始めに見た、ここ何年で一番の稚児ヶ淵からの夕陽。
〜あたしの海を真っ赤に染めて 夕陽が血潮を流しているの〜 記憶の中から、熱い思いで明日を見つめていた時代の、石川セリの「八月の濡れた砂」のテーマ曲が聞こえてきた。 |
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