思い立ったら日記 2005



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2005年9月22日

昨日は久々の“だらぁ〜ず”のバンド練習。
それも何と夜の10時にスタジオ集合である。
今回はウクレレの漫画家、石渡治氏が原稿の修羅場ということで残念ながら参加できなかったが、女優の山崎えりちゃんが初参加。
ベースの編集長アラキ氏と、ギター、キーボードの劇作家マキノくんと、いつもながらのだらだらだらぁ〜ずな、練習というより完全な楽器遊びな練習。
とは言っても、いつも男ばかりのスタジオ練習の中に女優なんて参加してたもんだから、以外と気合いなんて入っていたりして。

で、練習を終えたらもう日付が変わっている中、いつものように飲み会へGOである。
編集長アラキ氏の関わった、日米同時発売の写真集、“JOHN LENNON THE NEWYORK YEARS”(小学館)がその日発売だったもんだから、飲みながらの話題はとにかくジョンレノンの話題が中心。
この写真集、ニューヨークでのジョンとヨーコをプライベートまで撮ってきた写真家、BOB GRUENの未発表の写真+それまで明かされていなかったジョンの姿を語っている 
とあって、ジョンをリアルに感じてきた時代に育ったわが“だらぁ〜ず”メンバーにとってはたまらん写真集だったというわけだ。
ホント、いい写真集だぞ。

そんなジョンで盛り上がっての飲み会なもんだから、飲みもだらだらだらぁ〜ずで、最後にネットワーキングサイトのミクシィで知り合ったミュージシャンのチカヒロ氏のライブを見に行った店にも顔を出したところ、どういう流れからかこの店で11月に“だらぁ〜ず”でライブを行うことになってしまったのだ。

みんなのスケジュールの都合からなのだが、最近さして練習をしてない状態でのライブの話しに・・・どうする“だらぁ〜ず”、どうにかなるぜ“だらぁ〜ず”と、いつもながらのいい加減さと、飲みの勢いで決まってしまった“だらぁ〜ず”の東京での初ライブ。

店を出たら今回も、真夜中はいつのまにか過ぎて、明るい太陽に照らされた街の風景になっていての解散。



2005年9月13日

最近、ものを“書く”仕事が大半をしめ、ものを“描く”ことがめっきり減ってしまった。
編集に、「絵の仕事やらせて下さいよ」と言うと、「そういえばイラストレーターでもあったんだよね」の返事である。
そう、ぼくがイラストレーターだということを忘れられたらこまるのである。

打って、守れて、走れる野球選手のように、描いて、書いて、撮れるもの創りとしては、それでバランスを取っているもので、最近やたらと絵が描きたくなっているというわけなのだ。
そこで、これはいかんと、このHPの中に「ぼくはイラストレーターでもあるのだ」と、忘れられないために“イラストギャラリー”なるものを創ったので、もしよければ覗いていってもらいたい。

それにしてもイラストギャラリーを創ろうと25年間に描いてきたものを引っ張り出してくると、まぁいろいろなイラストを描かせてもらったもんだ。
週刊誌のカットから、単行本、雑誌の表紙、ページを割いたイラスト、ポスター、新聞、小説雑誌、週刊誌などの連載小説の挿絵、昔、漫画も描いていたことから、イラストストーリーなどといった独自のドキュメントタッチの読み物を描き、連載もさせてもらった。
いやいや、そんな自分のイラストを見ていると、もうメチャクチャに絵が描きたくなってきたじゃねえか。

そんなもんで、昨日は昼からF出版のH編集と打ち合わせをし、現役時代から応援してきた福田健吾の教えているボクサーが試合に出るので、S出版のA編集長と後楽園ホールに出かけ、後楽園ホールではN出版のS編集長、そして武道家の岡部氏と待ち合わせ。
終わったあとは、A編集長とともに高円寺へ行き、S出版の昔からの友人の編集と会って飲みという一日。
そんな編集何人と出会った昨日、とにかく編集に会うたびに、イラストを描かせてほしいと訴えたというわけなのだ。
まぁ、そのかいがあってか、S編集長からは、「しょうがねえから10月発売の本は頼むか」って、いやぁ、持つべきはやさしい編集者なのだ。

で、福田健吾の教えているボクサーの、ホールでの試合結果なのだが、大村光矢選手は2R見事なKO勝ち。
阪東竜選手も、凄まじい突進で7RにKO勝ちと、これで健吾の教えている4人のボクサーの最近の試合はすべてKO勝ちと、健吾ファミリーは凄い勢いである。

そう言えば、健吾も写真とともに、Nunnberなどでずいぶんイラストで描かせてもらった、絵になるボクサーだったんだよね。
そして阪東選手の試合後に健吾と撮った左の写真・・・阪東選手も描きたい気持ちのさせられる、まさに絵になる強烈なキャラの持ち主だな。



2005年8月26日

“フォト・エッセイ 熱い夏の日々”を始めた。
これはミクシィの“フォトアルバム”に載せているページを、写真、文を少し変えたりしながらこのHPでもアップすることにしたものだ。

先日その“フォトアルバム”で、13年来の友人のキックボクサー、立嶋篤史の写真とエッセイをアップした。

そのとき写真を選ぼうと、立嶋篤史と書いたフイルムの整理箱を開ければ莫大な撮影フイルムだ。
それをライトテーブルに広げ、ルーペで一枚一枚見ていく。

そこには怒りと闘争の顔があった。
歯を食いしばり闘う顔があった。
魂を吐き出しながら苦しみに耐える顔があった。
歓喜の咆哮を上げる顔があった。
悄然と背中を丸め、悔しさに顔を歪める顔があった。
叱咤の顔があった。
悪戯小僧のような笑顔があった。
自然の中で快哉を叫ぶ最高の笑顔があった。

立嶋篤史の生き様がそこにあった。

その写真を見ながら、“餓えた心”というエッセイをぼくは書いた。
写真を見ながら、そしてエッセイを書きながら、篤史からもらった勇気と力を思い出していた。

そしてそのアップしたアルバムとエッセイを見てくれた篤史は、自分のHPでその写真の中の思い出を書いてくれた。
その篤史の思い出を読んで、またあの日々の記憶が蘇ってくる。
「あぁ、そうだった・・・」と、篤史との日々のわすれていたことが蘇ってきた。

そうだ・・・ぼくはこれほどの量の篤史の写真を撮っていながら、二人で撮ったフイルムがないことに気づいた。
あたりまえのことだ。
撮っているぼくが篤史の横に立つことなどまずないではないか。

そんなとき一枚の写真が出てきた。

夏の終わり妙高高原のゴルフ場を早朝走った後、写真を撮ろうと、ぼくは二人で並んで朝陽に照りつけられできた影に向かってシャッターを切った残暑の一枚・・・

二人で撮った記念写真だ。



2005年8月13日

なぜだろう。
夏の記憶は楽しいことばかりだ。
子供のころからの海での記憶は数え切れない。
自転車で日本中を走り回った記憶もある・・・
そうだ、夏の中でいくつもの恋が生まれてもきた。

暑い太陽がジリジリと肌を焼くとともに、夏の記憶が蘇ってくる。
だからだろう、夏になればじっとしていられない。
先日も夜中に車を飛ばして海へ潜りに行ってきた。
そして車のラジオからは高校野球だ。

ぼくもずっと野球をやってきたが甲子園など遙か夢だった・・・だがそれでもどこかで夢を見てボールを追いかけていた。
そんな甲子園の夢をぼくはものを書くようになってから、違う形だったが見ることができた。

28才からの3年間、ぼくの夏は甲子園にあった。
ある雑誌で甲子園の原稿を書いていたのだ。
秋の新人戦から追いかける球児を決め、それから球児たちの高校へ何度も足を運び、取材を重ねることで、選手たちとキャッチボールだってやるようになり、春の大会が終わったころには、プライベートでもこっそり遊ぶようにもなっていた。
そして彼らにとって高校最後の夏・・・
予選から彼らの勝利に手を合わせた。
1年以上追いかけたことで、いつしか彼らにぼくは夢を託すまでになっていたのだ。
そしてその夢・・・彼らは甲子園で優勝という夢を叶えて見せたのだ。
優勝した瞬間、球児たちがグランドへ下りていったぼくに抱きついてきた。
泣きながら抱きついてきた。
取材する者としては失格かもしれないが、ぼくも彼らと甲子園のグランドで抱き合い涙を流した。

高校野球を見ていると、1986年の夏の甲子園大会で天理高校が優勝したときのことをいつも思い出してしまう。

TVで高校野球を見ていると無性に野球がやりたくなった。
そんな今日、小学館のO編集長から野球の誘いがあった。
夏のナイターで草野球である。
遠くから花火の打ち上がる音を聞きながら、ぼくは少し高校球児の気持ちで白球を追いかけた。



2005年8月8日

夏がそこにある。
後楽園ホールのリングはぼくにとって真夏のイメージがある。

20年前、ぼくはひとりの傑出したボクシングの才を持つ17才の少年と出会った。
今でもその少年のパンチの凄さは目に焼き付いている。
トレーナーの岡川さんがそのパンチをうけて言った言葉も覚えている。
「怖いよ」
その「怖いよ」の意味は、リングで相手を殺してしまうのではないかという怖さである。 

それほど少年のパンチは凶器の力を持っていた。

当時、ぼくはその少年をイメージに、週刊少年チャンピオンで、漫画家の金井たつお氏と組んで、“マッドドック拳”という作品を連載していた。
マッドドックとは、少年は狂犬と子供のころからそう呼ばれ恐れられていたからだ。
また、友人の漫画家、石渡治氏も週刊少年サンデーで“B・B”を連載していた。
その作品の主人公も少年である。
まだ4回戦の少年が二本もの連載マンガの主人公のイメージとなっていた驚き。
それほど少年から発する力に魅力があったのだ。

だが少年、福田健吾は世界ランカーまで登りつめたものの、タイトルを何も手にすることなくリングから去っていった。
悔いがあった。
当時、健吾はボクシングに全てを賭けて終えたのではなかったからだ。

その健吾がボクシング界へ戻ってきた。
2年前・・・
伊藤純という、才を持つ男を連れてボクシング界へ戻ってきた。
今度は育てる側、トレーナーとしてである。

健吾は今、4人のボクサーを教えている。
そのひとり、相澤国之などは来年には世界を取るのではないかとぼくは思っている。
それほどの力を持ったボクサーに育っている。

そして今日の試合、その健吾の育てている相澤は3Rに、そして伊藤も1RにKO勝ちで勝利した。

健吾の育てているボクサーのトランクスには“Burning Blood”の文字が刺繍されている。
健吾が現役時代にいつもトランクスに縫いつけていた文字である。

そう、今日ぼくは“B・B”の子供たちを夏のリングに見たのだ。





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