| | 2005年12月24日
あぁ、今年ももう一週間だというのにやらなければならないことばかりだ。
そんなもんで、必ず日記に書こうと思っていたことが、思っているだけで過ぎてしまっている。 これはいかん!と、今日は土曜だというのに、水曜のことをどうしても書きたいので書かせてもらうことにする。 そう、水曜に、わがバンド“だらぁ〜ず”のメンバーでもある、マキノくんの訳、演出の芝居「セパレート・テーブルズ」を見に行ってきたのだ。 いやいや、いい芝居だった。 ジワジワと登場人物たちの思いが心に染みてくるといった感動である。 マキノくんからは、この物語の原作であるラティガンの翻訳の苦しみから聞いて知っていただけに、どんな芝居になるのだろうかと興味津々。 で、どんな芝居になっていたかというと、それはもう、原作があろうと間違いなくマキノくんの芝居として出来上がっていたということだ。
何か嬉しかった。 いいものを見せられ、それを創ったものが友人だと思うと、それはもう嬉しいわけだ。
今、ぼくのまわりは、ものを創る、創ることに携わって生きているひとたちがたくさんいる。 つまり、そのことだけで何十年も生きてきている連中である。 そのことは、音楽であったり、漫画、作家、芝居、役者であるわけだが、共通して言えることはみんな、エンターティーメントだということなのだ。 そして、そのエンターティーメントであることが一番難しいことを知っている連中だと言うことだ。 だから刺激になる。 面白いものを創ろうと願うものは、面白いものに出会ったときがとにかく一番の刺激だ。
そう、今日のマキノくんの芝居も大きな刺激になった、それだけ「セパレート・テーブル」が面白い芝居だったということである。 |
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| | 2005年12月14日
今年も大学の恩師、三浦久先生の恒例、東京吉祥寺のマンダラ2での「年末ライブ」に行ってきた。
今年で12回目。 先生は60才になっている。 12年前といえば先生は48才、つまり、先生が年末ライブを始めた歳が今のぼくの歳だ。
入学した大学の先生でフォークシンガーであった先生との出会いによって、ぼくはプロのミュージシャンの世界に足を踏み入れることになり、当時爆発的に人気のあった“あのねのね”、そして河島英五さんたちと同じ所属事務所で出会うことになる。 とくに英五さんとの出会いは、ぼくの生きる中でとてつもなく大きな影響をうけた出会いとなった。
その英五さんが亡くなった歳も48才・・・ 今のぼくと同じ歳である。
いろいろな思いが交差する中、先生の歌を聞いていた。
風、そう、風を感じていた。 先生の歌を聞きながら風を感じたのだ。 歌から、言葉から・・・ いや、先生の生き方から風を感じたのだ。
先生は、カリフォルニア大学を卒業しアメリカから船で帰国すると、その船の着いた当時の横浜の海の汚さに、美しい所に住みたいと京都へ向かう。 京都ではギターを持って旅をし、歌を創り歌い、ヒッピーのような姿で大学で英語を教え、子供が生まれると、自分の育った地で、自然の中で育てたいと、信州の辰野へと向かった。 山と川の小さな街で、庭に畑を作り野菜や花を育て、いつも歌っていたいと、自分でライブハウスまで開いてしまう・・・
心の風が流れるままに先生は生きている。
そして60才になり、今も風のように生きて歌っている。 ぼくは風の声を先生からずっと、出会って今日まで聞いてきているのだ。
あぁ、そうだった・・・今回のライブでは歌わなかったが、先生のレコードのデビュー曲は「私は風の声を聞いた」だった。
今ぼくは、先生から「私は風の声を聞いた」と、感じている。 |
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| | 2005年12月12日
久々の後楽園ホールだ。
現在、まさに怒濤の毎日なのだが、今日のボクシングの試合だけは何が何でも行くと決めていた。
福田健吾。 80年代の日本のボクシング界で最高に期待されたボクサーだった男だ。 健吾とは、彼が高校生のとき、四国の松山から東京に出てきた日に偶然出会い、それからもう20年以上が経っている。 その希有な力に、ぼくは世界チャンピオンを感じ、健吾もリアルな夢としてその道を歩んでいた。 だが、その夢は叶わなかった。 そのあたりの話しは、すでに絶版になってしまっているが、「拳雄たちの戦場」(グリーンアロー出版)で書いているので、図書館や古本屋で出会えば読んでもらえればと思っている。
その健吾がボクサーとしてではなく、トレーナーとして夢を叶えようとしているわけだ。健吾は現在4人のボクサーを育てている。 その中のひとり、相澤国之が今日、世界へと挑戦する試合。 勝てば世界ランカー、つまり、世界チャンピオンへ挑戦できるキップを手に入れることのできる、ボクサーとしての運命を決める試合である。
相澤選手を始め、健吾の育てているボクサーのトランクスには「Burning Blood」の文字が入っている。 その文字は、友人の漫画家、石渡治氏の描いた漫画、「B・B」のタイトルである。 「B・B」の主人公のイメージは、健吾のイメージからもきている。 だから健吾も現役時代、トランクスには「Burning Blood」の文字が刻まれていた。 その「Burning Blood」が、今、健吾の育てているボクサーたちに嗣がれているというわけだ。
だからこの試合、友人の石渡治氏を誘ってやってきた。 また、その「B・B」の当時担当編集だった、荒木氏もやってきた。 相澤選手を応援するためである。
相手はあの天才、勇利アルバチャコフからタイトルを奪った、元世界チャンピオンで、2度の防衛のあと敗れるも、そのあと19連勝をつづけ再び世界タイトルに挑もうとしているチャッチャイ・シンワンチャーだ。
試合は手に汗握る壮絶なものだった。 相澤が前半ダウンを奪われる。 チャッチャイの実力の凄さを見せつけられ、とても実力的に勝てる相手ではないと思われたが、相澤は次第にチャッチャイを捉え始める。 この試合のためにどれだけ賭けてきたか・・・ その思いがパンチに乗り移ったように、ボディーから突破口を開き、そしてついに相澤のパンチにチャッチャイがひるみはじめたのだ。 後半は完全な相澤のペースで、まさに逆転の大勝利をB・Bの子供である相澤は収めたのである。 「よっしゃっ!」 ぼくらは観客席で快哉を上げた。
夢が近づいた。 健吾も、相澤も勝利の控え室で弾けたように嬉しそうだった。 来年、そう夢を叶えるための来年、ボク自身も楽しみな一年になりそうだ。
そのあと、今、進めている携帯コミック初の月刊誌のwebコミックの創刊号に載せる、石渡氏の作品の下書きができていて打ち合わせをしたのだが、凄いのひと言。 いやいや、天才だよ石渡治氏は・・・ 今までに見たことのない漫画が始まるぜ! 来年の2月! 怒濤の日々はつづくが、こんなパイオニアになるべく怒濤の日々はたまらなく楽しいぜ! |
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| | 2005年12月3日
遠い言葉がリアルに聞こえてきた。
わがバンド「だらぁ〜ず」のバンマス、荒木氏が編集者として創った写真集、「JOHN LENNON THE NEW YORK YEARS」の著者である、世界的な写真家、ボブ・グルーエン氏が来日した。 そのボブ氏の写真展とトークショーに行ってきた。
ボブ氏はトークショーで、ジョン・レノンがニューヨークにやってきて、すぐに出会ってからの、プライベートでの付き合いを含め、あの1980年12月8日、そして1981年に撮ったヨーコの母の姿までを、スライドで映し出されたボブ氏の撮った写真とともに丁寧に話してくれた。 すでにその写真集は見ていたこともあり、その写真集に載せられた写真の背景がボブ氏の言葉からいっぱい見えてきた。
不思議だった。 ジョン・レノンはぼくの中では神話の中の人物のような存在である。 ジョンが好きで、10代のころから夢中になり、ジョンのアルバムを買い、憧れ、影響され、そしてジョンはいなくなった。 25年前のことだ。 ジョンがいなくなってからも、ジョンの歌はずっと聞いてきたし、ジョンの本も何冊も読み、詩集を買い、年齢を重ねるごとにジョンの存在は自分の中でどんどんと大きくなってきた。
埼玉のレノン・ミュージアムも何度も足を運び、その空間の中でジョンの言葉を感じ、その言葉に涙が止まらなくなったこともあった。
遠い言葉をいつも感じていたのだ。
そのジョンと同じ空気の中で、そしてぼくがジョンを思うとき必ず浮かぶジョンの笑顔を撮った写真家が目の前にいる。
荒木氏がボブ・グルーエン氏を紹介してくれた。
そしてボブ氏と握手をした瞬間、遠いジョンがリアルに感じたのだ。 ボブ氏の写真で出会ってきたレノン、その写真を撮り続けたボブ氏の手は、リアルなレノンに向かってシャッターを切った手なのだ。
アトリエのぼくの机の横には、もう何年も前からボブ氏の撮った、ジョンがNEW YORK CITYのTシャツを着て腕を組み、サングラスをかけているあの有名な写真が貼られている。 その写真に向かって、ぼくはボブ氏と握手をしたその手でカメラのシャッターを切るふりをしてみた。
カシャッ! ぼくはリアルな、ジョン・レノンを感じている。 |
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| | 2005年12月2日
昨日、武道館で行われた「AAAコンサート2005」へカミさんと行ってきた。 AAAとは、Act Against AIDSの略である。
ぼくは20年以上前からよくタイに行く機会があったので、日本より遙に深刻な社会問題となっているタイのエイズに、リアル患者とも出会い接してきている。 そんなボクでさえ、エイズに対する認識が薄くなっていたことに気が付いた。 だからその意味をもう一度自分の中に、深刻なものとして呼び起こす意味において、今回はいい機会だったということだ。
とにかく数え切れないミュージシャン、役者が出てきたコンサートだったが、聞いてる自分の中で、最近はどうも、「音楽を聴く」ではなく、「音楽を演奏する」方に意識があるようだ。 福山雅治のギターの音に「ん、この音は、ヘビーゲージの弦を張ってるな」「よし、オイラも今度アコースティクにはヘビーゲージを張ろう」などと思ったり、ポルノグラフティーのリズムに、沖縄的なリズムを刻む曲があると、「今度はこんなリズムの曲を創るのもいいもんだな」と、そんなことばかり考えて見てしまっている自分がいる。
いやいや、こんなことを書いたら、まるで自分がメチャクチャ巧いと思われたらこまるのだが、あまりのヘタゆへに、「こうやれば少しは格好良く見えて、聞くに堪えてもらえるかも」という、そういう思いからの見方であるわけだ。 つまり、今のぼくにとって、われらがバンド「だらぁ〜ず」は、とても重要な生活の一部になっているということでもあるわけだけどね。
他にも、サンプラザ中野、岸谷香の曲は懐かしかったし、アヤヤは可愛かったし、水谷豊も渋かったけどね。 |
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