思い立ったら日記 2012



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2012年11月27日
 
あぁ、たしかにそうだという言葉に出会った。
 
キングカズこと、三浦知良が「成功」について語っていた言葉が書かれた本を読んだときだ。
 
「最近、何が成功で何が失敗なのか、と考えることがあるんだ。試合に出てゴールを決められれば成功で、試合に出られなければ失敗なのか、(中略)失敗して叩かれて、それで人間大きくなれることだってあるでしょう?なおかつ、そこから頑張っていいプレーをすることが自分を成長させることになるんじゃない?僕は今、見当も付かない先のことで『成功』と『失敗』を思い悩んだりはしていない。自分がポジティブになってすべてを受け入れられれば成功じゃないかと自分では思っているで、僕は必ずそうできる。だから失敗はないっていうこと」(三浦知良)
 
すごい言葉だと思った。
そうなんだ。
成功と失敗。幸福と不幸。安心と不安…すべてに置き換えられる言葉。
 
生きていく中で「失敗」「不幸」「不安」、それを自分が成長することと思えば、それは自分にとって「成功」「幸福」「安心」だと感じるということだ。
 
人は「心」で生きているとぼくは思っている。
たとえば、花を見たとき、「綺麗」と思えるのは、目で見ているからではなく「心」が見ているからだと思っている。
心が「綺麗」と見なければ、目で見ているだけでは「綺麗」とは感じないと思えるからだ。
 
つまり、頭で考えれば花ならば満開なら綺麗で、つぼみなら「まだまだだな」だし、作品なら、売れてお金が入れば成功で、売れなければ失敗などと、「世の中」の基準とやらで考えてしまう。
だが、生きていることの中心は自分である。
世間では「自分中心に生きている」ことを、「自己中」と何か悪くわがままのように言うが、生きているものすべては、自分を中心に宇宙が存在し生きているわけなのだから、自分中心に世の中が動いていることは当たり前のことだと思うんだ。
その自分。
その宇宙の中心に立つ自分が、世の中の基準ではなく、心はどう思っているかということだ。
 
その「心」がポジティブにすべてを受け入れることができれば、こんな幸せなことはないと思えるんだ。
そうだろ。
すべてが「成長」と思える、それこそが「成功」であり「幸福」だという「心」。
カズは「だから失敗はないっていうこと」と言っている。
 
あぁ、そうだ…
イチローを見ていて、ぼくは「修行僧」だとずっと思っている。
カズもまさに「修行僧」だ。
いつもそばにいるちばてつや先生からも「修行僧」を感じている。
一生を成長の修行と感じる生き様。
 
一生、成長しようとする「心」を持つことが、「成功」であり「幸福」なこと。
 
そうなんだ。
そう、そういうことなんだ。



2012年10月28日
 
大学へ来てから「自由」ということを深く考えるようになった。
 
もう、40年近くも前の、自分が大学生だったときを思い、どうもあの時代が自分の中で自由の象徴だったような感覚をもっている。
つまり、大学=自由といった感覚だ。
 
70年代のぼくらの、まぁ、京都のヒッピーの創った精華大学だったということもあったのかもしれない。
わけもわからず、とにかく自分を縛るものに対してはいつも憤り、闘っていたことはたしかだ。
世の中は「世間のものさし」ですべてを判断する。
それがとにかく、感覚としての不快を感じていたし、それが自由を奪っているような感覚を覚えていたというわけだ。
だからいつも「今」を楽しむにはどうするか、「自分のものさし」で考え遊んでいた。
大学構内の道にかってに小屋を建てたこともあるし、大学で無断でイベントも勝手にずいぶんやったし、それも先生といっしょに騒いでいた。
京都だったので、同志社、京大、立命も自分の大学のようにキャンパスで騒ぎ、とにかく京都がぼくにとっての大学だったと思っている。
おもしろいことなら何でもやってみる。
それが自由だと思っていたし、大学生の特権だと思っていた。
 
まぁ、その後も結局、好き勝手に生きてきたから大学生の特権ではないのかもしれないが。
友人のひとりが、ずいぶん前だが、自由勝手にあまりに生きてるもので、「田中は大学を卒業してないから、ずっとキャンパスにいるみたいだな」と言われたことがある。
うむうむ…たしかにそうかもしれない。
 
そいでもって、6年ほど前から本当に大学のキャンパスでまた生きるようになったわけだが…あまりにもぼくの時代の大学とは違うものになっていた。
 
無茶をやるものがいなくなっている。
とにかくみんなまじめなのだ。
 
大学の生徒も、大学の中もまじめなのだ。
ちゃんとみんなの言うことを聞いて、たとえばタバコだって構内禁煙となれば、裏庭で吸うものはいるものの、ルールを破ってまでなんてことはしない。
そう、生徒の方からもルールを重視する声があがってくる。
 
あれっ?と思った。
実はぼくらの時代は、とにかくルールというやつを嫌っていたはずなんだ。
ルールとは、言ってみれば道徳なのだが、道徳が自由を縛っていくということがわかっていたからこそ、道徳が幅をきかせてくると反発していたのだと思う。
 
道徳で縛れば、管理側はやりやすいのだが、今は生徒側も縛られる方が安心するといった感がある。
 
「つまらん」と言って、自分でも認めているのだが、今、大学で一番自由に振る舞っている。
あの京都時代と同じように、他の大学へ遊びに行ってはコラボや研究という名のもと、創りたいものを創っている。また、あの時代、大学を利用して仲間とイベントをやったように、県や市、民間とも組んでやりたいことでみんなが楽しめることをやっているつもりだ。
あいかわらず音楽でも遊んでいる。
 
そもそも自由というものは、求めなければ手に入らないものだと思っている。
じっとしていて自由など手に入るわけないし、人の管理する中で自由を叫んだってむなしいだけだ。
だからいつも、「自由とは逃げないことだ」と、自分の生き方でも示しているつもりだ。
 
それとともに、自由は「枠」の外にあるものだと思っている。
「枠」とは、たとえば「常識」のことだ。
「常識」の「枠」の外に自由はあることにみんななぜ気づかないのだろう。
 
たとえば電化製品のすべては、スイッチがあるというのが「常識」で、だれもスイッチの先を考えてこなかったのだが、スティーブン・ジョブズはiPodからその「常識」を見事に「常識」ではないものにしてくれた。
 
自由とは新しいものを生み出す力でもあるのだ。
道徳や、常識や、大学もそうだ。
すべての「枠」の外にこそ自由はあるはず。
「枠」の中で生きないで、「枠を飛び出し旅にでよう」なのだ。
 
何か長い日記になってしまったが、「枠」に収まらない人間なので、自由にこのあたりで。



2012年9月26日

「あのとき命を落としていった若者が、今の日本を見たらどう思うのだろうね」
ちばてつや先生がぼくが運転する帰りの車の中でボソリと言ってきた。

ちば先生の作品、「紫電改のタカ」の話しをしているとき。
「紫電改のタカ」は、当時流行っていた戦闘機ものの原稿依頼があったのだが、戦闘をスポーツのように、ゲームのように描く戦闘機ものは描きたくないと、ずっと断りつづけ、それでも食い下がる編集者に、戦争の悲惨さを描かせてもらえるのなら、ということで描き始めたマンガだったそうだ。

描くにあたって、当時、ちば先生は特攻機、回天など、特攻で死んでいった若い隊員の遺書をいくつも読んだという話になった。

ぼくも、そういった類いの本は若い頃何冊か読んでいた。
その遺書の文面を読んだだけでわかるよね。
当時、特攻で死んでいった若者たちは、将来間違いなく日本の宝となったであろう、凄く優秀な若者たちなんだよね。
その若者たちが、そう、自分の命を、日本の命を守るために捧げてしまった命なんだ。
今、生きているぼくたちの命は、その尊い命の上になりたっているってこと。
だからこそ、ぼくたちが生きているということが、どれだけ大きく、どれだけ重い命なのか…
日本人の命の重さをちば先生は静かに話してきて、でもその口元からは悔しさを感じてくるんだ。

「それがいつからこの国は、命を大事にしなくなったのだろうね」

命より経済と、そこにどんなしがらみがあろうとも、命より経済優先などありえない。あたりまえのことなのにね。
そのあたりまえが通じない、日本の政治、原発の話し。

ふと、昨年末、国王が訪日したことで日本のだれもが知ることになった、ブータンという国のことが、そのとき頭を過ぎったんだ。
ブータンには花屋がないって言っていたことを思い出したんだよね。
そう、花も命。
だから寺院に備える花も造花なんだ。
命を慈しむ心がそんなとこからも伝わってくる国。
それに比べて…

ひどく悲しくなってきた。
ぼくがそんな顔をしたとき…

「でもこの国が好きなんだよね」
ちば先生が運転するぼくの方を向いて話してくれる。
戦争の満州からこの日本に戻ってきて、いくつもいくつも感じたこの日本のこと。
四季の景色を先生は思い浮かべて話してくれる。
日本の海や山や、樹や花のこと。
その中で生きてきているということ。
だから、日本人のひとりひとりが、今何を大事にして思っていくのか…
そこからまた命が動き出すはず。

「「紫電改のタカ」の話しが、とんだ方向になってしまったね」
先生がすこし笑いながらそう言ったとき、東北道から外環に車は入っていた。

宇キ宮の大学から東京への帰りの車の中でのお話し。





2012年8月24日

御厨人窟(みくろど)
高知の室戸岬にある洞窟なんだけどね。
8月、その場所に立って「あぁ、やっと来れた」って、そんな気持ちになったんだよね。

2年前、中国の河南省にある崇山少林寺の、達摩が面壁九年を行った、達摩洞に行ったとき、あのときと同じ気持ち。
達摩洞は、菩提達摩が面壁九年を行い悟りを開いた場所ならば、御厨人窟は、弘法大師空海が修行を行い、やはり悟りを開いた洞窟なんだ。

正確に言えば、御厨人窟には隣り合わせで二つの洞窟があり、ひとつは空海が生活をしていた洞窟、御厨人窟であり、神明窟と言われる太平洋に向かい左側の洞窟が空海が修行をしていた洞窟。

この御厨人窟で修行をしていたとき、明けの明星が空海の口の中へ入り悟りを開いたという伝説があるのだけど、ぼくがその場所に行きたかった一番の思い。
それは弘法大師がその修行の洞窟、神明窟から見えたものは、空と海、ただそれだけだったことから、「今日から私は、空海と名のろう」と決めたという場所。
その空と海しか見えなかった、その空と海が見たかったんだ。

達摩洞で座禅を組んだと同じように、神明窟で座禅とはいかないものの、その洞窟で座ってみるとね。
目の前は空と海。
そして波の音が洞窟の中で響いてくる。

何なんだろうね。
達摩洞で感じたときと同じ気持ち、感覚…
そう、宇宙…
そうなんだ、宇宙を感じる感覚。

その感覚が「あぁ、やっと来れた」という気持ちになったのだと思う。

たとえばこの場所は、空海が修行したとき、夜は洞窟の中が深い闇だったと思うんだ。
闇が深ければ深いほど、光は輝くもの。
だから夜明けがあると感じることができる。
それは死を深く意識すれば、それだけ生を感じることができるということ。

地球が生きていると感じることで、空も海も同じ瞬間はそこにはないことがわかってくる。
生きているとはそういうこと…
自分も含めて、生きているものは時間が止まることはない。
時間は命という感覚。
それが宇宙。

そんなことを感じることができた、8月の旅の中で過ごした御厨人窟の時間だったんだ。



2012年7月31日

オリンピックをTVの前で見ながら、興奮し、感動し、悔しがり、ひとりでも歓喜を上げている。

もう、10年近く前に出した本にこんな前書きを書いていてね。

“生きるということは“力”である。
人は生まれた瞬間から、息をすることも、泣くことも、食べることも、糞尿することも、寝ることも、そして考えることも、すべて“力”で生きている。
“生命力”という力で生きている。
僕はスポーツの原稿をいくつも書いてきた。
100メートルを10秒で走るアスリート、160`近い球を投げる投手、一撃で相手を倒すパンチ力を持ったボクサー、無酸素でチョモランマに登頂した登山家、フリーダイビングで100メートルの潜水を越えたダイバー…
そんな人たちに出会ったときにはドキドキするほどの感動があり、無条件で尊敬の念を抱いてしまう。
なぜぼくたちはスポーツに感動するのだろうか?
凄いパフォーマンスを見せたアスリートに対して、なぜ無条件で尊敬の念を抱くのだろうか?
答えは簡単なことだった。
“生命力”の強さである。
スポーツを通して人間の持つ“生命力”の強さに感動し、尊敬の念を抱いているのだ”

このあと、この前書きの文章はまだまだつづくのだが、そう、ぼくらはスポーツという闘いで、人間の持つ“生命力”を感じていると思うんだ。
その闘い、頂点の闘いはまさにオリンピックだからこそ、その頂点の“生命力”に感嘆し、興奮し、身体から震える感情が湧き出ているというわけだ。

この日記は、女子柔道の57`級で、松本薫選手が金メダルを獲得したあとの高揚感の中で書いているのだが、松本選手のメダルを取って、贈呈式で見せた笑顔を見たとき、松本選手がすごく幸福に見えてね。

“生命力”の強さとともに、そのとき、「あぁ」と思ったことがあったんだ。

「幸福になりたいから、楽して生きたい」って、そんな考えを持っている人がだれのまわりにもいると思うのだけど、そんなことが本当に幸福なことなのかって、松本選手の笑顔を見ていて思ったんだ。

幸福って、「楽」なところにはなくて、「辛い」「苦しい」ところにこそあるんじゃないのだろうかって。

松本選手が金メダルへたどり着くまで、どれだけのことをやってきたか、苦しさや辛さは半端じゃないことは想像できるもんな。
そしてたどり着いた場所での笑顔。
世界中で一番幸福な瞬間を味わってる笑顔だよ。
だから見ていて幸福になれるし、何か嬉し涙まで出てくるしね。

あんな笑顔を見ていたら、人間が生きるということは、乗り越える楽しみがあるからがんばって生きていけるって感じたし、それを乗り越えたときの喜びが最高の幸福なんじゃないかと…

きっと、だれもが本当はそのことをわかってることだと思うけどね。

だから、オリンピックは、人間の“生命力”の強さとともに、生きることの幸福の瞬間も見せてもらってるんだな。





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