思い立ったら日記 2006



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2006年11月23日

あいかわらず、アトリエの庭には野良猫たちである。

机の前に座っていると、今日も何匹もの猫たちが窓の外でウロウロしているのが目に入ってくる。

で、そんな猫たちにも、遊びのマイブームというのがどうやらあるらしい。
庭の桜の木に、まるで命を賭けているのではと思えるほどひたすら高く登ることをやっていたり、エアコンの配線コードのテープを剥ぐことに夢中になったりと、こいつらいったい何を考えてるやらだ。
まぁ、木に登るのは無害なのでいいのだが、さすがにテープ剥ぎがブームのときは困った事態だった。

そいでもって、最近のその猫たちのマイブーム。
二階の窓の外から見える、隣りの家の屋根の上で猫たちがそれをやっているのだが・・・
それってオイオイ!なのだ。

何をやっているのかといえば、屋根の瓦落としなんだなこれが。

ガリガリと、屋根の瓦の下の土を掘って、次ぎに瓦を押し出すようにして落としていやがるんだぜ。
その光景を見ているボクに対して、猫は落とした瓦の横に座り、まさに大仕事をやり遂げたとばかり実に自慢げなのである。

この瓦落としをやっているのは、チビママと呼んでいる猫たち。
そのチビママが、2匹の子供たちといっしょに、親子で瓦落としを共同作業でやっているというわけなのだ。

まぁ、そんな親子が力を合わせてがんばっている姿って、本来なら見ていて美しく、応援すらしてやりたいのだが・・・
さすがにこれは、オイオイ!なんだよね。

隣りの家の人はきっと自分の家の屋根で、猫たちにそんなことをやってるなんて知らないんだろうけど・・・
でもきっと気づく日は近いだろうな。

だって、こりゃ、間違いなく雨漏りすることになるぜ。
オイオイ!



2006年11月19日

ときどき餓えが襲ってくるんだ。
映画を見たいという餓えでね。

で、ここ4日ばかり、原稿や企画書でアトリエにいることが多かったもんで、合間に邦画ばかり、レンタル開始前のDVDとWOWOW、日本映画専門チャンネルで録画したものと9本もみてしまった。
「海猿2」「ハチミツとクローバー」「花田少年史」「かもめ食堂」「亀は以外と早く泳ぐ」「人間の翼 最後のキャッチボール」「髪からはじまる物語」「不滅の男 エンケン対武道館」「春の雪」。
つまり、机の前に座っている以外は、ほとんどTVの前にいたというわけだ。

映画はとにかく好きで、今でも月に10本〜20本は見てるんだけど、そのほとんどがDVDか、衛星、ケーブル放送。
考えてみれば、映画館で見ることなど、年で20本ほどしか見なくなったんだよね。

映画館。
10代、20代のころは、いつも名画座だけど、時間さえあればその空間の中にいたもんな。 

特に京都時代、ロードショーは年に数えるほどしか金がなくて行けなかったけど、京一会館と、祇園会館で75年から82年の間に上映された映画は、ほとんど見たと自慢できるぜ。
東京に出てきてからも、池袋の文芸座と、文芸地下に入り浸り。
う〜ん、京一も文芸地下も、あのタバコとションベンの匂いが、今じゃ懐かしいもんだ。 


で、思うんだけど、あの頃に見た映画は、すごく鮮明にシーンを覚えてるんだよね。
つまり、ビデオやDVDで見るときときっと集中力が違うんだよね。
ビデオや、DVDなら、一瞬見逃しても巻き戻せばいいって、どこかそんな見方をしてるんだろうな。

とは言っても、やっぱ、DVDや衛星、ケーブルででもいいから、今でも無性に映画に餓えて貪り見てしまうことがあるってことだ。

今回の9本も、ヒドイ作品もあったけど、それなりに楽しんだもんね。
「亀は以外と早く泳ぐ」なんて、作品も面白かったけど、わがバンド“だらぁ〜ず”のゲストボーカルのエリちゃんが出てるなんて知らなかったもんだから、出てきた瞬間、それだけで嬉しくなったもんね。

まぁ、最近、知り合いの役者が、映画を見ていて突然でてくるもので、そんな楽しみ方も映画鑑賞に加わったってわけだ。

そいでもって、今回見た中では、「海猿2」は、突っ込みどころはあるものの、この手の日本映画では一番いいできじゃないかと思ったよ。

そして、ひとつ名作が入ってました。
「かもめ食堂」
いい作品でした。



2006年11月10日

ナンバーポータビリティで、プライベートのケータイ電話もDoCoMoから、SoftBankに変えちまったよ。

たしかにDoCoMoは日本全国で一番つながるんだけど、とにかく電話以外の機能はダメというか、ヒドイもんで、(ケータイコミックの仕事でこの一年、いろいろなキャリアを使ってきたけど、ホントどうにかしてほしいほどDoCoMoは他の2キャリアと比較して機能が落ちるし不親切)。その上料金はメチャ高いもんで、ぜったいにDoCoMoだけは変えようと思ってたんだ。

auか、SoftBankだけど、その決め手は、やはり仕事上のケータイコミックをいろいろ見たり、画面のよさ、容量、ダウンロードする便利さ、SDカードからの切り替えが一番使いやすいといった、諸々からSoftBankに決めたんだけどね。

それにしても超がつくほどのアナログなぼくが、さすがにケータイ機能だけには詳しくなったもんで、何がいいかをわかった上で買い換えることができたってわけさ。

で、今回、予想外割りで705Pという、最新の薄くてすぐれものの機種に変えたんだけど、へへっ、さすがSoftBank、そんな最新のケータイにまでiPodが付いてきたんだ。
う〜ん、さすが予想外。
まぁ、前から気にはなっていたんだけど、MDウォークマン持ってたら、iPodなんて必要ねぇと思ってたのだが・・・タダならもらってやろうじゃねえかって、それだけだったんだけどね。

それに付いてきたのは2GBのiPodなもんで、そんなに曲をコピーできないと思いきや、いつもよく聞く曲など250曲以上入れても、まだ1GB以上残ってるじゃん。
その上、音を聞けば、もしかしたら今持っているMDウォークマンよりいいかもだぜ。

それにしてもこんな小さな中に2GBで500曲は入るわけだろ・・・
つまりは、小さなポケットひとつに500曲はこれからいつでも持ち歩けるわけだ。
車にでもすぐにオーディオに繋げることができるもんで、車にMDやCDを積む必要もなくなるわけよね。
何かすげぇよね。
外出、読書、運動、いつでもこの小ささならまったく邪魔にならねえしね。
おぉ、書きながら嬉しくなってきちまったぜ。
いやいや、iPodって、こんなに便利なものだったとは・・・
今回、SoftBankに変えなければ気づかなかったことだな。
iPodは手放せねえぜ。
う〜ん、人生予想外。

まぁ、そんなSoftBankの予想外のことを、さっき友人と電話で話していたわけだが、iPod手に入れた次の日に250曲もiPodに入れてるヤツの方がよっぽど予想外って・・・いやはや。

※治ちゃん、治ちゃんの女性担当編集がヤンサンのグラビアで書いていた言葉、“いやはや”がぼくの最近のマイブームになってます。いやはや。



2006年11月5日

二日酔い。
昨日は少し飲み過ぎたんだけどね。
でも、本当に楽しい酒だったよ。

ちばてつや先生と二人で、高円寺の「彦六」に行ったんだ。
先生、ウクレレを弾くもんで、前から先生に「面白いウクレレ弾きの集まる店があるので行きましょう」って誘っていたんだけどね。
それで昨日、先生と「行こう!」ってことになったんだ。

土曜日なもんで、唄う従業員の“みつばち涙”ちゃんもいて、そんなバチちゃんのウクレレの曲を聞きながら先生とマンガの話し。
先生は今、宇都宮の文星芸術大学でも教えているもんで、教えるということから感じ見えてきた、マンガの面白さ、可能性といったことを、静かに、でも熱く話してくれてね。

先生と話していたら、本当にマンガが好きなんだって感じるんだ。
だから、もっと面白いマンガを創りたいって、できるはずだって思いがバシバシって伝わってくるんだよね。
そしてね、才能のある、マンガの好きな子供たちを、大学という枠の中だけじゃなく、才能を潰さないで、一番いい形で作品を創っていけるにはどうすればいいのか、本気の言葉が飛んでくるんだ。

凄いよ。

ぼくはちばてつや先生のマンガで育ってきたんだ。
ハリスの旋風の石田国松を見て、背の低かったぼくは国松からいっぱい勇気をもらって、それが野球部でがんばってこれた元だったし。
あしたのジョーにいたっては、ぼくのアイディンティティは間違いなく「あしたのジョー」によって確立されたもんな。
つまりは、ちば先生がいなければ、今の自分もいなかったってことだよね。

あぁ、だから先生とマンガの話しができていることが、こんな嬉しいことがないもんでね。それでもう、その高揚感から昨日は飲みすぎたってわけさ。

「ぜいたくだな」
ちば先生が嬉しそうに笑いながら言っている。
他の客がいなくなった中で、バチちゃんが、マスターの織田島さんがウクレレでオリジナルの曲を弾き語ってくれている。

ものを創り表現することの感動。
そんな空間に包まれた彦六の中で、ぼくも最高のぜいたく感を感じてたんだ。



2006年11月2日

24時間前の小さな溜息・・・
「覚醒剤」「逮捕」の字が昨日の朝刊、日刊スポーツ一面の大きな見出しになっていた。 


野村貴仁。
20年前、ぼくはその小さな投手に夢中だった。
今はなくなった小さな海の分校の、小さな野球部の小さな大投手。
その170センチにも満たない小さな投手の、大きな名門校にいつも立ち向かっていた姿は今も目に焼き付いている。

プロの世界で挫折した酒浸りの年老いた男が、その小さな分校の監督となり、小さな大投手とともに、春のセンバツ大会の補欠校になる所まで強くなっていったマンガのような日々。

バットの握り方すら知らない、野球など未経験の部員を老監督は一から育て、「背が低い」というだけで名門校の野球部から相手にされなかった小さな投手野村を軸に、海の小さな分校が甲子園を目指したその軌跡。

桑田、清原のPL学園を破り、甲子園で優勝した高知の伊野商業の渡辺投手の言った言葉。 

「甲子園で優勝するより、高知で勝ち抜く方がむずかしい」
その時代の高知で、分校は決勝まで勝ち進んだのだ。

ぼくは老監督と小さな大投手のいる分校のある高知へ何度も飛び、まるでマンガの世界のようなこの野球部の原稿を書き、写真を撮って、ノンフィクション、エッセイといくつもの雑誌に載せていった。

惚れていたからだ。
太平洋に向かって、大きく吠える小さな大投手の姿にぼくは惚れていた。

やがて野村は、三菱重工三原からオリックスへ入り、老監督とともに見に行った、安芸で行われていた黒潮リーグでは、野村はノーヒットノーランのピッチングを見せてくれた。
イチローがまだオリックスの新人だった時代だ。

それから野村はイチローとともに、オリックスで日本一にまで登りつめ、巨人、メジャーのブルワーズと活躍。

ぼくの中で、野村貴仁という投手は、その原点を見てきただけに今でも大きな存在となっている。
あの高知の宇佐分校の、ナイター設備すらない海辺のグランドで、真っ暗になってもボールを追いかけていた野村の姿・・・

そんな野村貴仁の今回の新聞記事・・・

20年前の高知の眩しい夏の太陽を思い出した。
その太陽に眩しく目を細める、「太陽がいっぱい」のアランドロンの姿と曲が重なり流れていく。

あまりにも寂しすぎるぜ、よう、野村貴仁よ。





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