思い立ったら日記 2008



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2008年9月10日
 
夏のおわり2 マンガサミット
 
夏の旅。
マンガサミットでのまた数々の出会い。
その出会いからアイデアが沸き、それが形にできる「場」にいることで、大きな化学変化を生み出していく。
 
プロとはつまりそういう「場」いることなのかもしれない。
 
今回のマンガサミットには文星芸大の学生たちが14人も、自費でやってきてくれ、そして手伝ってくれた。
驚いたのは、みんな自分の今描いている原稿を京都まで持ってきて、そして描いている姿があった。
まだ「何者でもない」みんなが、「何者になるため」に不安と戦い藻掻いている姿のひとつ。
ぼくにもあった。
「何者でもない」時代の自分をそんな生徒に感じていた。
 
そんな生徒たちのために、ちば先生と理事長がお金を出してくれて、料亭で大いに騒いだ夜。
そこで話したちば先生の、プロということはどういうことかという話。
作家でありつづける意味が、心に染み刻まれた。
酒が回ってくると、学生たちの恋の話が飛びかい、そんな話を肴に、学生たちの若さを感じながらぼくも飲んだ。





2008年9月10日
 
夏のおわり1 駒ヶ根にて
 
真っ青な空。
眩しい光はもう柔らかく、夏の終わりを告げている。
 
今、8月8日に日記を書いた同じ場所、長野、駒ヶ根の大沼湖のほとりでこの日記を書いている。
あれほどモクモクとわき上がった入道雲は姿を消し、ただただ青い空が広がる目の前の光景。
セミの声は消え、鳥たちのさえずりが森から聞こえてくる。
 
7日から向かった、京都マンガサミットの帰り、この場所にまた寄ってしまった。
 
夏休み。
そうだ、この夏、まんが甲子園とマンガサミットへ行くことで感じた感覚は、間違いなく夏休みの臭いだった。
まんが甲子園では育った瀬戸内海の海を渡り、高校時代、夏に自転車で四国一周をしたとき初めて太平洋を見たのが高知だったと思い出した。
サミットでは大学時代のまさに青春の場だった京都で比叡山を見上げ、鞍馬から貴船へと歩き、あの時代によく飲みに行った「地球屋」で思い切り安い酒に酔った。
 
あの時代の夏休みが今年の夏にはあった。
 
夏の消えゆく陽が、緑の木々の隙間から差し込んできている。
夏の終わりのあの十代のような寂しさ。
 
駒ヶ根の青い空は宇宙が透き通るほどに青い空だ。





2008年8月31日

この夏、何人の人たちと出会っているだろうか・・・
何か凄い勢いでいろいろなことが動き出している。

大学は夏休みだというのに、まんが甲子園から帰ってきてTV界、音楽界、ファッション界、広告代理店、もちろん出版界の人たちなどと、人が人を呼ぶということはこういうことかと、今の歳になってつくづく感じる出会いがつづいている。

その出会いから、まだ書けないことが多いが、今年中にいくつか自分でもワクワクしている形として動き出すものを現在プロジェクトを組んで前にと進んでいっているものがある。

学生たちともプロ作家として3人ほど原稿を頼んでいたりと、夏休み明けの大学で本気で取り組んでいきたいことが、今、次々と生まれていっている。

もちろん今の出会いはほとんどが仕事としての出会いだが、共通点は「ものを創る」という共通な思いがあるもんで、プライベートでも深く友人となっていく出会いにもなっている。

ここで面白いのが、「音楽」というつながりだ。
実にバンドをやっている人たちの多いことか。
またそこで、ミュージシャンたちとの出会いも生まれてきているというわけだ。
その遊びを形にして、お金になるかどうかはわからないが、まったく新しいコラボでの表現を創っていこうなんて飲みながら話し、そこでまた形にするため人が集まってきているのがここ毎日だ。

こんな前にばかり走っている今年の夏の中で、サザンオールスターズの、「真夏の大感謝祭」のラスト日、24日、カミさんと聞きに行ってきた。
30周年。
ぼくの場合は、サザンがまだ青学大のアマチュア時代に、よく京都の「拾得」というライブハウスでライブをやっているころから知っているので、サザンに出会って30年以上だ。
音楽は時代というが、サザンの場合、自分の生きてきた道が曲によって思い出されてくる。
30年以上耳に入ってきたトップミュージシャンの曲というのは、そういうことだ。
青春というヤツが曲で一気に蘇ってくるだけの「道」の力を持っている。
ラストあたりの、「YaYa(あの時代を忘れない)」の曲ではこみ上げてくるものがあった。

今、仕事場でサザンのCDをかけながら原稿を描いている。
今は絵の作業なもんで、しみじみと「あの時代」を感じながらの仕事だ。
今日もいくつか飲みの誘いの電話があったが、雨のおかげで誘惑に負けないで机にしがみついていられる。

この夏、いろいろな出会いから忙しさ(楽しさ)は倍増してきているのだが、「あの時代」が今につながってきていることはわかっている。

来週、6日から今年は京都で今年開かれるマンガサミットへ行ってくる。
前に進むための、「あの時代」の場。
それもぼくが「あの時代」京都に住んでいた場所である、岩倉の「国際会館」で開かれていることも何かのつながりかもしれない。

そして「あの時代」、その場で憧れ読んでいたちばてつや先生と、今回その場に行くということが、考えれば不思議な気がしている。

「YaYa(あの時代を忘れない)」
その場所で、またどれだけの出会いがあるのだろうか・・・

そう、今年の真夏はまだ終わっていない。





2008年8月9日

10時、ホテルのチェックアウトをすませ山に向かって車を走らせた。
朝、高原から見える真夏の空と山を見て、東京へ戻る前に「エネルギーをもらって帰ろう」と、心と身体が感じたんだ。

エネルギーは間違いなく一番は人からもらっている。
出会いとはエネルギーの張大だと思っている。

それは「気」のやりとりだと感じたのは、武術の取材をはじめ、中国という歴史のエネルギーを通しての、武術家たちとやはり出会いからはじまった10年以上も前のことなんだ。
まぁ、そんな話は今までエッセイや本で書いてきたことなので、書き始めると日記じゃなくなってしまうので、つまりは、エネルギーの話だ。

都会は刺激的で、そんな中での人との出会いも刺激的で、だからそのエネルギーを求めて都会に憧れ、そのエネルギーの中で今も生きている。
まぁ、人を好きになること、愛することなんて、まさにエネルギーの塊だもんな。

でも人のエネルギーというものは、いいエネルギーだけじゃないもので、つまりは人との出会いによって、エネルギーを奪われ疲れてしまうこともままあるわけだ。

エネルギーが枯渇したと感じたとき、ぼくは自然の中へ身を置くことにしてるんだ。
「人間は自然の一部」ということを感じさせてもらえる場所。
つまり、海や森なんだけどね。

そんなわけで森を歩く。
真夏だというのに、ひんやりと身体に染みこんでいくような空気がそこにある。
冷たい苔に、そして何百年も生きた木を触ってみる。
命を感じるということは、つまりは自分の生命を感じていること、生きているということ。

山道を抜けると大きな寺があった。
手を合わせると少し涙が出てきた。
無宗教なぼくだが、寺や神社が生命を感じる「場」として造られたことだけはわかっている。
今、この日記を自然の中で書いている。
苔の生えた階段に座り、目の前には小さな池。
そして真夏の青い空に入道雲も見えている。

少し親のことを考える。
実家に寄り、年老いた親に戸惑うばかりだった旅の途中。
この夏の旅は、「命」の旅だったのかもしれない。

さぁ、温泉にでも入って東京へ10日ぶりに帰ることにするか。





2008年8月8日

旅の途中。
眩しく突き刺す太陽がある。
その陽射しを浴びての深い深い緑がある。
青い海はやはり陽射しを浴びてキラキラと光ってみえる。

夏の時間が過ぎていっている。

先月31日から、助手さんと生徒を車に乗せ、高知で毎年開かれている「まんが甲子園」に、大学のブースを出しに行ってきた。
片道1000キロを超える車の旅だ。

今年もいろいろな人たちとの出会いがあった。
東京で何十年も出会わなかった、今は役職につくほどみんな偉くなっている元編集たちと、高知という場で再会。
その出会いが、いろいろなことへとつながっていく。
南国の夜のうまい料理と酒は年齢に関係なく夢を語らせてくれる。
その夢を形にできる立場の人たちとの出会い。

そんな高知で、赤塚先生が亡くなったことを聞いた。
赤塚先生の作品が自分にとっていかにおおきかったか、最近NHK BSの赤塚先生の特集番組を見ながら、自分の中で、そのキャラたちの持つ「生きている」存在を、ちば先生に帰りの車の中で話していた矢先・・・寂しさが高知の空の下で降ってきた。

帰りはひとり車で四国に今いる実家に寄ることにした。
ぼくが歳をとるだけ、両親も歳をとっていくというあたり前のことを忘れてしまう親不孝。
生きていてくれることがどれほど大きなことか・・・

今、四国から東京へ戻る中間地点として、長野の駒ヶ根に立ち寄っている。
ここでも美味しい食べ物を飲み物と出会った。
ものを創造していくことで出会った友人とつきない話。

旅の途中なのだが、パソコンを開くと溜まった仕事のあまりの多さ。
長野に住む恩師の先生を訪ねようと思っていたのだけど、今週中にやらなければならないいくつかの仕事があるもので、ネット環境が整っている駒ヶ根のホテルでもう一泊決めた。
ホテルを出れば目の前は高原だ。
今、湖畔の喫茶店で蝉の鳴き声の中、夏の緑の風を浴びながらこの日記を書いている。
目の前の湖畔には生まれたばかりのカルガモの親子。

ふと、空を見上げると入道雲だ。

真夏の時間で今、ぼくは生きている。





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