思い立ったら日記 2009



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2009年6月26日

おもしろいものだ。
覚えることというのは、こういうことかと気づかされることがある。

昨日がそうだった。
ゼミ学生のヌミャーンたちといつものようにライブをやってきた。
最近ライブをやらせていただいている、鹿沼にある「久遠の月」という店でのライブである。
今日は、自分がヌミャーンと同じ年齢のころに歌っていた曲をやってみようと、何曲かカバー曲を歌ってきた。
自分が二十歳のころに、友人たちと集まり、酒を飲みながら歌っていた曲だ。
弾きながらあのころのことを思い出す。
あぁ、この曲を覚えたとき・・・いや、弾けたとき・・・
そうだ、自分のオリジナルのあの曲を創っていた。

影響されて似たような曲を創ったというわけではない。
技術だ。
その曲を覚えたとき、自分に今までなかった技術を手に入れたことを知る。
するとつまりは創りたくなるのだ。
ひとつの技術が宇宙へと繋がっていく。

あぁ、創るというのはこういうことなのかと気づかされる。
今、動画と静止画、そして音楽を使って、以前の日記にも書いたが、新しい感覚のムービーをひとりで作り始めている。
なぜこれほどに創りたくなったのか。
もちろん思いはずっとあった。
だが、それを形として創りはじめたのは技術を手に入れたからだ。
つまりはそういうことだ。

Photoshopから始まって、画像ソフト、ムービーソフト、ミュージックソフト、エフェクターと未熟ながら、手探りながら使うことができている。
(昨日の深夜、またこの7月発売の新しいムービーソフトを注文してしまった)
使うことができるようになれば、その効果で作品で何ができるか、創造が広がっていく。
こんな作品が創れるのではないかと、自分しかできない作品のイメージが沸いてくる。
とてつもなく創りたいという欲求が、たまらなく沸いてくるというわけだ。

今、大学の他にも週間で2本上げなければならない連載や、月刊での連載、やらなければならない約束している原稿がまるで金太郎飴のように控えている。
それでもまるで宇宙のように創りたいものだらけだ。

武術の資料も仕事場に山住されていて、「あぁ、インドに行かなきゃ」「チベット、中国に行かなきゃ」と、もう3年間動けないで、取材がストップしている作品もある。

あぁ、そんなことを考えていたら、まだ途中の作品が山ほどあるではないか・・・

そういえば、マイケル・ジャクソンの東京ドーム初ライブに行ったころは、世界中飛び回っていたっけな・・・



2009年5月31日

あいかわらず時間が空いた夜は、わが街、高円寺で飲んでいる。
昨日も知り合いのおもろい店のライブで、おもろいミュージシャンとの出会いがあった。

考えてみれば、もう30年近く、高円寺、阿佐ヶ谷という街で飲んできた。
おもろいいくつもの店のある高円寺と阿佐ヶ谷。

憧れの漫画家の先生、憧れの作家、憧れのミュージシャン、憧れの俳優、女優、憧れの映画監督・・・
小学、中学、高校、大学時代に、読んで、聞いて、見てきた憧れの人たちとこの街で出会い、何百回と楽しい酒が飲めているおもろい街だ。

また、いっしょに飲んでいて、いつのまにかTV、雑誌で活躍していたり、活躍を世界に広げた仲間たちもずいぶんといる。
そして今も、若いエネルギーをいっぱいもったおもろい仲間たちとも絶えずに出会ってきている。

そんなこの街で、おもろいことは何でも参加するぼくなもんで、ライブなんてことも何度もやってきた。
イベントも何度も仲間と企画し、やってきた。
学生のころ憧れていたミュージシャンと酒を飲みたくて、この街でライブを企画したこともあった。
この街だということでやってきてくれるのだ。

今でもバカのように、映画、音楽、スポーツ、マンガ、小説の話で熱くなり、騒げているおもろい街だ。

この街を舞台にマンガの作品もいくつも創ってきたし、作品の中でモデルになったおもろい仲間たちは数えきれない。

気づくと、ぼくはおもろい仲間たちの中で最年長になってしまっている。
創造から恋の相談までされる立場になっているようだ。
みんな夢を持ってがんばっている若いおもろい仲間たち。
とにかくおもろいことをやり始めるといつのまにか集まってくる仲間たち。

実はそんな仲間たちに、ぼくは今も育てられてきている。

前回の日記でムービーを創りたいと書いたのだが、そのおもろい創造に若い仲間たちが集まってきてくれている。
高円寺という街で出会った、おもろい仲間たちが、おもろいというだけで無償で集まってきてくれる。

おもろいことをやれば、必ずその周りにおもろいヤツらが集まってくる。
この法則は、子供の頃、京都時代、そして今を生きていて間違いない法則だ。

高円寺という街は、その法則で溢れている。
だから昨日も、今日も、そして明日も、おもろいヤツとの出会いがこの街では間違いなくあるというわけだ。




2009年5月24日

http://www.youtube.com/watch?v=vxiSvW3Wk9Q
(YouTubeのURLです)

映画を創ってみたいと突然思った。

いや、映画はずっと昔から創ってみたかったのだ。
映画が好きで、中学のときの夢に「映画監督」なんて思いも持っていた。
京都での大学、ミュージシャン時代は、京一会館、祇園会館という名画座のおかげで、年間200本以上は間違いなく見ていた。
とにかく週に最低1度は、映画館に行き、考えてみればATGから当時の日活ロマンポルノを中心としてピンク映画まで、邦画に関しては本当によく見ていたと思う。
(オールナイトが中心で、一晩6本立てなんてこともあったな)
まぁ、その京都時代に培われた思いのおかげで、数年前、「ド・ぴんく」というピンク映画を撮る主人公のの原作を書いたり、日活ロマンポルノにやたらと詳しかったもので、エッセイの連載も書いてしまったというわけだ。

で、映画に関しては20歳のとき一度行動に出たことがある。
山下憲章監督の東宝でのデビュー作のとき、監督と寝泊まりからずっと行動をいっしょにさせてもらった。
丁度当時、東宝の山下組のとなりが、黒澤組で「影武者」を撮っていたこともあり、黒澤監督と挨拶し、すれ違っただけで感じたそのエネルギーの凄さは今でも忘れない。

だが、そのとき映画創りがひとりではできないことを思い知らされた現場でもあった。

カメラや美術、音響、役者さんなど、関わったものたちがそれぞれの思いを持って現場にやってくる。
ひとつ歯車が狂えば、相手にはベテランもたくさんいるもんで、新人でそれをまとめるなど恐ろしく大変なことだと感じた20歳の映画に対しての現実を見せられた日々だった。
(そのころのことは、HPの「あの頃ミュージシャンだったような思い出」に少し書いてます)

それが、今は、そう、シンガーソングライターとしてひとりで音楽をやったり、マンガを描くように映画も撮れる時代になっている。
ならばと、まずは実験的に作品を創ってみた。
この10日ばかり、空いた時間はPCの前にしがみついての制作である。

実験的と書いたが、まずは自分の記念すべきムービー第一作目というわけだ。

25年ほど前、ノンフィクション作家の山本茂氏の書いた新聞小説、サンデー毎日での連載小説の挿絵を描かせてもらっていた。
そのとき、絵とともに、グラビアもやっていたので、写真も密着で約2年ほど撮っていた、その写真で今回構成したというわけだ。(前からやりたかったものなのだ)

タイトルは、山本茂さんのノンフィクション小説のタイトルを使わせてもらい、「ロッキーを倒した男 復活」とさせてもらった。

解像度の問題で、映像はそうとう落ちるが、YouTubeにもアップしたので、興味のあるかたはぜひ!

とともに、秋までには、原作、絵、写真、映像、音楽、編集すべて自分で、まったく新しいムービーを創りはじめたんだ。
今も音楽、マンガ、イラスト、写真、作家をやっているもので、「自分、全員集合」でムービーの制作に入ったというわけなんだ。
仕事関係でも、TV局との2011年に向けてのムービーコミックの話を進めているもので、そのプレゼンにも使おうと思っているので、関係者の人たちは楽しみにしておいてください。

それにしてもあいかわらず、自分でどんどん自分を忙しくしてしまっているなぁ・・・




2009年4月29日

あぁ、眩しい空が目の前に広がっている。
29日、休日だが宇都宮に残ることにした。
大学の新学期が始まり、目のまわるような忙しい日々がつづいているもので、東京へは帰らず、少しのんびりと、夏休みに向けての夏合宿を考えている、少しおもしろいお寺に休日を利用して行くことにしたというわけだ。

車で田舎道を走って2時間ほどの小さな旅。
その旅の途中、ぶらりぶらりと、目に飛び込んで来る、春の陽射しの眩しい風景の中に車を止める。
今、「かたくりの里」と書かれた、小さな山と、田んぼ、畑、草花そして、鯉のぼりが泳いでいる中でこの日記を書いている。
ただひたすらに気持ちのいい風。

いい毎日が過ぎている。
忙しいというのは、つまりは動きつづけているということだ。
先週は、ゆでたまごの嶋田先生が大学へ遊びに来てくれて、ちばてつや先生、雷句先生との対談を生徒を交え行った。

ゼミ生のヌミャーンとジョウさんたちと鹿沼でライブもやってきた。
ここでも新しい出会いがあった。

ちば先生もライブを聞きに来てくれていて、その日も先生を乗せて車で東京へ帰ってきたのだが、その車の中での会話はぼくにとって宝ものの会話だ。
もう、何十回とその宝ものをもらっている。
ちば先生がどう生きてきたのか、どうやって作品を生み出してきたのか、喜びと苦しみと、ときには愛と、先生の作品で育ってきたぼくにとって、すべての言葉に感動を感じている。

「創らなきゃ」
ハンドルを握りながらいつも思う。
そう、先生の言葉がいつも大きく力を与えてくれる。
「創らなきゃ」
新しい作品が生まれていく。

あぁ、本当に眩しい空だ。
連休中は新しい作品を創るための打ち合わせと原稿がビッシリと待っている。

そうだ。
今日だって新しいこと、つまりは面白いことをこの夏にやるための、その打ち合わせに向かっている、その途中。
ただただ、面白いことをやるための忙しさ・・・

目の前の鯉のぼりが気持ちよさそうに泳いでいる。





2009年4月12日

卒業式が終わり、そして新しい友たちとの出会い、入学式が流れていった。

4月の眩しい光の中で桜が舞う。

今年の春は何度も桜の木の下に身を置いた。

卒業生たちと上野での花見。
東京の仕事場(アトリエ)の庭の桜は今年も見事だった。
毎年満開の時期には境内で時を過ごす、近所の南蔵院の桜もたまらんほどの美しさを見せてくれた。

そして古賀志の孝子桜。

10日の入学式が終わり、大学の理事長に誘われ、ちばてつや先生たちと鹿沼の城山西小学校の校庭にある孝子桜を見に行った。
樹齢四百数十年のシダレザクラの樹が、まるで宇宙を感じさせる壮大さで、静かな校庭の中で聳えている。
震えるほどの敬虔がそこにあった。

旅を思う。
孝子桜を前にして旅を思う。
生きていることが旅だと、そしてこの桜に旅の途中で今、出会ったのだと。

春の眩しい日差しの中で、孝子桜の生命が舞っていた。





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