思い立ったら日記 2010



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2010年9月14日

いかんと思う。

中国から旅のことをリアルタイムで書いていこうと思っていたが、リアルタイムどころか、日本へ帰ってきて二週間たつというのに、このざまだ。

いいわけをすれば、中国ではとにかくよく動き、何より、夜はあまりに食べ物が旨く、飲み歩いてしまい、ホテルはただ寝るだけの毎日。

日本に帰れば、一ヶ月日本を離れていたツケで、とにかく日々のスケジュールに追われ、夜はごぶさたの飲み屋で、飲みとライブの毎日だったというわけである。

つまりは、飲みでこのざまになってしまったという、本当はいいわけにならない日々だったということなのだ・・・


ともあれ旅の話を書こう。

今まで、実にいろいろな旅をしてきているが、今回の旅は大きく自分を変える旅になったことはたしかである。

それほど今回の旅はテンションが高く、濃い日々の連続だったということだ。


実を言うと、今回のバックパッカーな旅は、少し体力的に心配だった感がある。

53歳という年齢で、20代のような旅ができるのだろうか・・・

この夏に向けて多少、身体を鍛えてもきたが、70Lのザックと、PCとカメラの機材はさすがに重い。


だが結論から言うと、60代になっても「まだ行ける」と、そう思える旅だった。

スケジュールを決めず、起きてからその日の目的を決める旅で、一番大変だったことが、20年前までは、ホテルを探すことだった。

「チープホテル」と、駅や、タクシーに乗り運転手に聞いたり、安そうなホテルに飛び込んだりと、大きな荷物を抱えてウロウロする体力はそうとうなものだったし、精神的にも疲れるもので、たしかに若いときは、それ事態が旅のおもしろさで楽しかったが、さすがにこの年齢ではきついと思ったというわけだ。


だがそんな不安は一瞬にして吹き飛ぶ時代になっていた。

ネットである。

その日の目的地のホテルをネットで探し、ネットで予約すればそれで終わりというわけだ。ネットで、ホテルのセキュリティから、ネット環境まですべてわかり、連れの留学生の高くんとふたりで150元(2000円)も出せば、日本のビジネスホテル以上の豪華ホテルが取れてしまう。

ホテルに荷物を置いていても大丈夫なセキュリティのしっかりしたホテルを探し、簡単に予約できたものだから、実に身軽にカメラだけを持って動くこともできた。

(20年前は、カメラバックを部屋に置けばすぐに盗まれるようなホテルに泊まっていたもので、つねにカメラ機材の荷物を持ち歩いて大変だったのだ)


杭州を出てから、西安、洛陽、鄭州、登封、上海と高くんとともに旅をしてきたわけだが、一気に全部書くのは少し、書く側も読む側もきついので、何度かに分けて旅日記を書こうと思う。


まずは西安である。


最初は杭州から電車で西安まで行く予定だったのだが、20時間ほどかかるということで、西安へだけは飛行機で飛ぶことにした。

気温40度を超えていた杭洲から、25度の西安に着いたとき、バックパッカーとしてはあるまじき国内で飛行機など乗ったものだから、搭乗で預けた荷物が届かず、結局は夜遅く、航空会社の人間によってホテルまで持ってきてもらったところから西安の旅は始まったというわけだ。(航空会社の人に聞くと、その日荷物がちゃんと届かなかった客は27名と、日本ではありえない数字に、さしてそれを失礼と思ってないところはさすが中国である)


西安は古都として千年の歴史を持つ都で、その歴史の地を見てまわるとすれば、一ヶ月は滞在しなければならないほどの見所満載の都である。

とは言っても、とにかく西安の街の猥雑さがすごかった。

3日後には洛陽に移動したいと思っていたので、着いてすぐに、西安駅に列車の切符を買いに行ったのだが、駅の近辺は、中国人の高くんまでが悲鳴を上げるほど、人、人、人の渦と、そこから発するエネルギーに圧倒されてしまった。

杭州とは違う、まさにアジアを感じるエネルギーがそこで暴風となって吹き付けてくる。


で、そんなエネルギーの街で来たらまず行きたいと思っていたのは、何はともあれ世界遺産の兵馬俑である。

テレビや写真で見て、死ぬまでに見ておきたいと、ずっと思っていたのだが、目の前で見たその壮大さは言葉にはならない・・・生きた俑が目の前に現れ、その魂を吐き出している、そいうった凄みである。

これが紀元前に作られたものという人間の凄さ、それとともに、この陵に関わった32年間で72万人が殺され、その中で作られたという魂が伝わってくるような・・・いや、言葉にはできない歴史の昂揚が波のようにわき上がってくる。

出てくる言葉は「凄い!」の一言しかない。

高くんとふたり、とにかく「凄い!」の言葉を連発するだけの時間が過ぎていった。

その感嘆の声は、まだこれから何度も上げることになる、感嘆のひとつに過ぎなかったというわけである。

つづく



2010年8月15日

中国の杭州に来ている。

中国の漫画家を目指す少年、少女たちを集めての夏期講座に呼ばれてきているというわけだ。

ぼくの授業は8月12日〜20日までで、そのあとぼくのゼミにいる留学生の高くんと、西安、河南省とバックパッカーの旅に出ることになっている。

本当の旅は21日からと思っていたのだが・・・この夏期講座事態、自分にとって大きな旅ではなだろうか。

高くんを含め、今ぼくは中国人だけの中にいる。

だれもが高くんを通して、懸命にぼくとのコミュニケーションを取ろうとしてくる。

ぼくも高くんを通して答える。

授業でも、食事に行っても、飲みにいっても、互いに興味があるからこそ人が集まり、そして会話がはじまる。

言葉はあまり話せないが、絵と音楽という感じ合うことのできる武器をぼくは持っている。だから絵を描き、ギターを弾くと、それだけで一気にたがいの壁が消え、音楽が、絵が会話となる。

そこでまた人が集まり、たまらない時間が流れていっている。

中国のマンガ関係の友人、中国の漫画家、政府関係者から、屋台の飲み屋で知り合った若者たちまで、旅での出会いはたまらんほどワクワクする日々が流れていく。

高くんが言う。

「中国方式の中にいるからですよ」

そうだ。本当の旅は、そこに住む人と同じものを食べ、同じ臭いを感じ、同じ空気感にとけ込む、つまりリアルにその地に立つことができないとただの旅行になってしまう。

そういう意味で、この杭州にいることも、間違いなく旅だということだ。

昨日不思議な光景を見た。

高くんと杭州の白蛇伝で有名な西湖に行き、そして雷峰塔に登ったときだ。

西の空に美しい夕陽が沈み、その次の瞬間、真っ赤な陽の柱が空へと一瞬だけ広がったのだ。

あまりの神秘的な光景に、この旅が自分にとって大きな旅になってきている予感を感じている。

そう、もう旅は始まっている。



夏の陽射しを感じると胸が時めく。

一年中夏の中で生きたいと、夏が終わるのがいやで、9月になると南の島へと夏を追いかけていた20代、30代、40代があった。

そうだった。

7年前から始めている自分のHPも、「毎日が真夏」という、夏を追いかけたHPだった。

子供の頃は、瀬戸内海の海が夏の象徴だった。

高校の夏、その瀬戸内海から自転車を漕ぎ、四国一周で太平洋と出会った。

自転車の旅はつづき、大学では日本海も自転車で夏に走った。

明日から「まんが甲子園」で高知へ飛ぶ。

4年連続で夏の高知へ向かうのだが、高知の夏は今でも高校のとき、始めて自転車行ったときの空気を感じている。

1973年の夏に感じた臭いがそこにある。

その懐かしい夏を感じたい思いとともに、夏の陽射しを感じると、知らない夏も感じたく追いかけていく。

まんが甲子園から帰ると、すぐに中国上海へ飛び、そこから杭洲に行き、10日ほど中国でのマンガの夏期講習を行って、それが終わればまず西安に向けて電車に乗る。

漠然と行き先は決めているものの、予定は何もない。

気になった地で下り、そこで宿を探すといった、20年ほど前には当たり前にやっていた自分の旅のやりかただ。

何か久々に胸が時めいている。

知らない地の夏を想像して胸が時めいている。

どんな街と出会い、どんな食べ物と出会い、どんな風と出会い、どんな空と出会い、どんな山と出会い、どんな緑と出会い、どんな・・・人と出会うのだろうか。

今回の旅の目的の中心には、菩提達摩、玄奘三蔵、空海という、ある意味何の関係もない僧がぼくの中でひとつに繋がってきているものがあり、それを確かめる旅でもある。

出会えるだろうか、その地に立ったとき、達摩が面壁を行った洞窟に立ったとき、玄奘の生まれた地に立ったとき、空海が修行した寺に立ったとき・・・何に出会えるだろうか。

眩しい陽射しの中で、2010年を感じてくる。



2010年7月27日

70Lのザックを買ってきた。

この夏、8月11日から中国の杭州へ行くことになっている。

中国でのマンガの夏期講習に呼ばれたというわけだ。

期間は10日ほど。

せっかくだからと、河南省の少林寺に行って帰ってこようと漠然と考えていた。

菩提達摩と少林寺、そしてその中にもうひとり、ワクワクするような人物が「武術」というキーワードで関わっていたのではないかと、書物で調べていた中で出てきた疑問。

それを調べるために少林寺へ行こうと、今年に入って考えていたこともあり、少林寺に行くことは、中国へ行くと決めたときからすぐに決まった。

杭州からどうやって少林寺に向かうか・・・そう考えていたとき、飛行機を使わず鉄道で行ってみても面白いのではと、そんな思いが頭をよぎった。

地図を見た。

鉄道の時刻表を見た。

杭州から少林寺のある洛陽へは一本の鉄道で行ける。

その先、西安までもつながっている。

一気に何か血が騒ぎ始めた。

少林寺という目的だけ決めて、一ヶ月ほど中国をバックパッカーしてみようか・・・

そう思うといてもたってもいられなくなってきた。

西安から河南省にかけては、行ってみたいと考えていた場所が数え切れないほどある。

それに、調べたい人物も、少林寺だけではなく、西安にも繋がっている。

大学の自分のゼミにいる、中国の留学生とも中国で合流しようということになった。

これは心強い。

鉄道はともかく、中国のバスはどこへ行くかわからないことだらけなので、北京語の話せる仲間がいることは実に心強い。

つまりはそれで70Lのザックを買ったというわけだ。

きっとこんな旅は最後になると思う。

ホテルも決めずに、明日のことも決めずに、朝起きてから今日のことを決めるといった旅。

旅行ではなく、旅は間違いなく体力が必要となる。

人は老うということを感じる年齢になってきただけに、これが最後だと自分でもわかっている。

だから、この夏に行こうと決めた。



2010年6月28日

寝不足がつづいている。

寝不足は6月11日から・・・つまりはW杯開幕からだ。

本当の人生を、命を国を賭け背負った真剣勝負がいかに面白いか、熱くなれるものか。

ナショナリズムというものが、これほどまでに民俗の心に流れているものか。

その感覚をW杯はオリンピック以上に感じさせてくれている。

と、同時に、「あぁ、日本がここまで来たか」と、30代前半に創った作品を思い出す。

日本が1998年にW杯初出場を決めた10年前の1988年、秋月めぐる氏と、W杯を目指す作品を描こうと、「ビクトリー・ラン!」という作品の連載を月刊少年チャンピオンで始めている。

まだJリーグもなく、日本リーグによく取材に行ったのだが、観客数よりもサッカー専門誌、新聞ぐらいしかこない取材陣の数の方が多かったといった試合もあった時代である。

W杯自体、一部のファンのみで、その存在すら知らなかった人が大半だったサッカー後進国の日本。

サッカーと言えば、W杯や日本リーグより高校サッカーが人気のあった時代、秋月氏とプロのサッカーを舞台に、主人公は86年メキシコ大会で虜になったマラドーナをイメージして、W杯に出場するまでの話を描いたのだ。

面白いことに、「ビクトリー・ラン!」は、サッカー選手に人気の漫画だった。

後に、Jリーガーたちから、「読んでましたよ」と何人にも声をかけられている。

秋月氏と、毎週のように、国立競技場を始めとするサッカー場へ行き、ガラガラのスタンドを見上げながら、いろいろな話をした。

取材で、プロのリーグが生まれようとしていたこと、また、静岡を中心にW杯日本招致に動いていたことも知っていたので、プロが生まれ、日本が強くなり、夢のW杯に日本が出場することになったら、どれほど日本がサッカーに熱くなってくれるだろうか・・・

国立競技場より大きなスタジアムがいくつも必要になるなと、当時唯一満員になっていたトヨタカップのイメージで話していた会話だった。

日本で見られる世界のサッカーと言えば、トヨタカップだったこともある。

その、トヨタカップでやってくる選手のレベルの凄さ。

日本のサッカーとはまったく違う、世界のサッカーの凄さ。

そう、88年のころは、W杯に日本が出ることなど、夢のまた夢の時代だったのだ。

それが、今現在、真のベスト16に残っている。

2002年のホームのときとはまったく違う条件での、真の世界で闘っての今回のW杯。

今回のW杯は、日本サッカー史において、リアルタイムで見るということは、歴史の立会人になれている、そういうことなのだ。

2010年のW杯、日本中がサッカー一色になっていることを、22年前の自分に伝えたら信じられない顔をするに違いない。





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