思い立ったら日記 2011



 2012年   2010年 2009年 2008年 2007年 2006年 2005年 2004年〜

トップへ
戻る
次へ



2011年12月27日

あぁ、2011年はいろいろなことがあったよな。
仲間から始まった2011年。
年の始まりは、20代の頃から「あしたのジョー」の話しをしてきた友が、仲間が、奇跡のようにスタッフ、俳優、ゲストの立場で集まってきた映画、「あしたのジョー」が公開されたのが2.12.
それから一ヶ月後にあの3.11が起こったんだ。

あの日からすべてが変わったよ。
今までの自分の中の概念や観念、そういったものがぶっ飛んでしまって、それでも「どうにかしなきゃ」と、ちばてつや先生を中心に、小学館・集英社プロのKとともに、チャリティをソーシャルネットワークを中心に呼びかけ始めたんだ。
大学のぼくの研究室が本部。
そこに集まったマンガ家仲間たちから贈られてきた、メッセージ色紙やグッズが、1235万円以上にもなってね。
全額被災地へ寄付。
そのオークションのためにすべての色紙、グッズをスキャンして、ネットに載せて、自腹で梱包して、発送して、K氏と仕事以外で何日徹夜したんだろうね。
まぁ、自分でもよくがんばったって思うよ。
でも、そうしていなきゃ苦しくて、苦しくてどうしようもなかったんだけどね。

今回、動き回っていろんなことを教えられたよ。

実はマンガに関わって、ここまで生きてきたけど、心のどこかに、マンガはなくても生きて行けるって気持ちがあったんだ。
もう、30年前にもなるけど、小学館のひとりの編集が「マンガなんてなくても生きていけるものだからね、ぼくらは生きるために創ってるんじゃないんだからね」
その言葉が残ってたのだろうな。

でもそれが違うってハッキリわかったもんな。
被災地でみんなが、ジャンプを読むために一時間以上歩いたり、ボロボロのマンガを避難所でみんな回し読みしていたり…
はっきりわかったもんね。
人は、ぼくたちは、生きるためには感動がなければ生きていけないって。

マンガも絵も、音楽も、芝居も、映画も、ありとあらゆる感動から生まれるものが、人に感動を与え、そして生きる力になるって、はっきりわかったんだ。
生きるには「感動」が必要だということ。
だから創るよ。
とことん創るよ。
音楽も絵も写真もマンガも、これまで生きてきてプロとして創ってきたことが、ひとつの形として表現できる時代になったんだ。
大学にいることで、ぼくの一番不得意な、理工系の他の大学の専門家と組んで、今は3Dのマンガなんて創ってるしね。

もうひとつ、こういう時代だからこそ人間の本性も見ることができたよ。
ここに書いたら悪口になるから書かないけど、チャリティのとき、目の前でぼくたちがいくら懸命に動いていたとき、少しでも力を貸してくれた人、まったくの無視だった人。
企画を持ち込んでも門前払いだったくせに、それが動きだしお金になるとわかったとたん、毎日のように連絡をしてきて、すり寄ってきた人。
口ばかりで、ちゃんと形を創らない人も何人もいたな。
そのことで、この人は仲間じゃないとハッキリわかったしね。

でもそれ以上に本当の仲間たちができた年だったことはたしか。
その仲間たちと、今、いろんなことを初めてるんだ。
来年のワクワクする企画がいくつも進行中。
みんな「創る」本当のの仲間がわかったからね。
「創る」苦しみと喜びを知っている仲間。
だからがんばることを知っている仲間たちだからこそ、組める。

4月3日の日記で、ぼくは「希望を創る」と書いたのだけど、1012年もその気持ちは変わらないよ。
「希望を創る」
それが2011年から始まった自分の生き方なんだ。



2011年11月27日

詩人、高見順の「帰る旅」という詩が好きだ。
高校のときその詩に出会い、その中に書かれていた言葉が今も心に残っている。

“帰れるから 
旅は楽しいのであり 
旅の寂しさを楽しめるのも 
わが家にいつかは戻れるからである” 

詩はこうはじまり、“この旅は自然へ帰る旅である ”と、人は自然に帰る旅をしているとつづく。
つまり、人は生まれてから土へ帰る旅をつづけているということなんだ。

「生きるということは何とはかないことだ」と、感じさせられた詩。

だが、そのはかなさを楽しむことが生きることだと。
そういうことを17のとき感じさせてくれた詩だった。

そしてこの詩を自分なりにぼくは解釈していたようだ。

ぼくは、旅とは自分で切り開いて、自然や人、宇宙と出会うものだと。それが旅だとずっと思ってきているし、今もその考えは変わっていない。
用意されたパッケージや、冒険のない与えられた世界で生きることは「旅行」だと。だからぼくは「旅行」はしたことがない。
その考えを持ったのが、「帰る旅」というこの詩に出会ってからだと思っている。
だが、改めて読むと、そういった考えを持つ言葉はこの詩にはないではないか。
つまり、この詩を読んで17の自分の中で勝手に創った思想だったのだ。

でも、それも「旅」だと思っている。
人の創った「創造」から感動をもらい、そこから新しい思いが自分の中から生まれてくる創造。
それも間違いなく「旅」である。

あぁ、ここまで書いたら高見順の「帰る旅」をここに書きたくなった。
自分にとってとても大事な「詩」である。

帰る旅

帰れるから 
旅は楽しいのであり 
旅の寂しさを楽しめるのも 
わが家にいつかは戻れるからである 
だから駅前のしょっからいラーメンがうまかったり 
どこにもあるコケシの店をのぞいて 
おみやげを探したりする 

帰るところのある旅だから 
楽しくなくてはならないのだ 
もうじき土に戻れるのだ 

おみやげを買わなくていいか 
埴輪や明器のような副葬品を 

大地へ帰る死を悲しんではいけない 
肉体とともに精神も 
が家へ帰れるのである 
ともすれば悲しみがちだった精神も 
おだやかに地下で眠れるのである 
ときにセミの幼虫に眠りを破られても 
地上のそのはかない生命を思えば許せるのである 

古人は人生をうたかたのごとしと言った 
川を行く舟がえがくみなわを 
人生と見た歌人もいた 
はかなさを彼らは悲しみながら 
口に出して言う以上同時にそれを楽しんだに違いない 
私もこういう詩を書いてはかない旅を楽しみたいのである

(高見順『死の淵より』所収)  





2011年10月26日

思い切りナックルボールを今、ぼくは投げてるよ。

考えてみればぼくはいつもストレートばかり投げてきたような気がする。
好奇心の思うままに、どこへども真っ直ぐに飛び込んで、地球のどこだって行けると、世界で出会えないことはないって、今考えるとけっこう無謀な旅ばかりしてきたもんな。

キャッチャーミットのど真ん中に、そりゃもう全力で投げてたのだけど、未熟だったぼくはコントロールが定まらず、肩肘張って、悔しがって…
ときとして大暴投なんてこともあったな。
でもね。
全力でストレートを投げつづけたことで、相手にその気持ちは通じて、すごくいっぱいの人と出会い、奇跡のような経験ができたこともたしかなんだ。

いや、「仕事」に関してはストレートを投げなかった、投げられなかったこともいくつもあったな…

意気込んでマウンドに上がって、さぁ、投げようとしたとき、自由に投げて打たれたら、マウンドから下ろされるんじゃないかと。
キャッチャーというクライアントや編集からの、その場の思いつきの変化球のサインとわかっていながら、そのサインにしたがって試合をボロボロにしてしまう。
心が弱かったんだろうな。

ストレートが投げたくて、思いつきのサインなんかに振り回されずにストレートが投げたくて、そう、何度も何度も藻掻いたな。

そんなときだったな。
武術を取材しはじめた15年前…
強さを求めての取材の旅を沖縄から始めて、闘う強さじゃなく、生きることの強さが武術の根底にあることを中国で知った長い旅。
生きる強さは自然に逆らわない。自然と一体になるということ。
水になり、風になり、そして宇宙になる生き方。

あぁ、これでいいんだ。
そう思ったとき、肩肘張ってストレートじゃなくて、思い切り投げて、あとは風が吹けば自分の意志とは関係なく、風の凪がれで旅するナックルボールを投げればいいと。

いいじゃないか。
思い切りナックルボール。
そういう生き方でいいって、だからぼくは思い切りナックルボールを今、投げてるよ。



2011年9月25日

大学の行きと帰り、ちばてつや先生をぼくの車に乗せて向かう、または帰る日々が月に何度かある。
もう何十回、いや、すでに百回は超えているはずだ。

自分が子どもの頃最高に大好きで影響をうけた、ちばてつや先生の作品。
マンガに関わっているのも、スポーツを、特にボクシングという題材で作品を20代からずっと書いてきているのも、すべてちば先生の作品の影響からだ。

ちば先生に出会ったのが25年ほど前だが、大学へ行かせてもらうようになってからのここ5年は、実に満にいろいろな話しが出来ている幸せがある。

とくに車の中というのは2人だけなもんで、約2時間の時間はじっくりといろいろな話しができる空間になっている。
大学の話しがある。
マンガ界の話しがある。
作品の話しがある。
スポーツの話しがある。
政治の話しがある。
哲学の話しがある。
8割はぼくが聞きたいことでいっぱいで、たとえば「あしたのジョー」の話しをする。
その原点、「魚屋チャンピオン」の話しになり、そのモデルが東洋ライト級チャンピオンだった沢田二郎選手だったといった、そんな初めて聞く話しが出てきたりする。

たまらん時間、そんなたまらん話しを、それもぼくひとりで聞けているという贅沢な空間。

今回、東京へ戻ってくるとき、ひとりの武道家の話しになった。
ずっと前から、車の中での会話で、ぼくがよく話題に出していた武道家「岡部武央」の話しだ。
その岡部に先生は「会ってみたい」とずっと言っていて、今週、うまくタイミングが合ったことで、東京で先生の家へ岡部といくことになっている。

岡部とは7年ほど前に「東洋武術」の本を作ったことがある。
もちろん先生はその本を読んでいてくれて、その本の中で、岡部の興味ある人何人かとの対談も行っているのだが、その中のひとり、その世界(医学界)では極めた人物を先生が20代の前半に「違う人かもしれないが」と、前置きはあったが、出会っていると思う先生がボソリと言ってくる。
それも、互いが無名時代、その出会いがとても大きな出会いだったと、長い時間がすぎてわかる出会いだったと。
こういった不思議なつながりが突然でてくる。
こんなつながりがいくつも、自分のまわりだけでも何十とでてきている。

極める人というのは、作家であっても、スポーツ選手であっても、医者であっても、その頂点へ上り詰めていくとき、同じ頂点を目指しているものだ。
そういったエネルギーを持った人というのは、不思議と引き合うのか、ターニングポイントで、必然として出会っているのだ。

中国語でカンフー。
広東語でグンフーな人の出会いである。
これは、日本では中国拳法の言葉として使われるが、カンフーな人、グンフーな人というのは「極めた人」という意味になる。

ぼくは岡部と出会い、また、沖縄空手の佐久本先生に出会ったことで、武術、武道という見方が大きく変わった。
武術、武道とは闘うのではなく、精神、身体すべての「生」を知る術であるということ。
それが「力」だということ。
カンフーな生き方だということ。

そんな話しを今回の車の中でちば先生と話していた。
そのとき、ちば先生がぼくに高速を下りてすぐのところで質問してきた。

「田中さんは、そんないろいろな人と出会い、話しを聞き、作品にしてきているわけだけど、それで得たものは何ですか」

ぼくは即座に答えた。
「生命力です」

これは口にはしなかったが、「ちば先生の作品から、いや、生き様から、ぼくは一番“生命力”をもらっています」と心の中でつぶやいていた。

前を向いて運転しているものでちば先生の顔を見たわけではないが、そのとき、黙ってちば先生が「微笑んだ」姿をぼくは感じていた。





2011年8月22日

最近まわりから、“スナフキン”と呼ばれてニンマリしている。
そうなんだよね。
きっとだれもが、心の中で、“スナフキン”のように生きたいと思ってるからね。
自由にね、人間関係や時間や規律に縛られなく、風のように流れるままにひとりで生きていく。
“スナフキン”ってぼくの中でも、そんな自由の象徴のように思えているキャラクターなんだ。
だからさ、“スナフキン”って呼ばれて、そういう生き方が少しはできてるかもしれないって…そう思われていることが嬉しかったりしてね。

この間、生徒にね。
「自由に生きるってどういうことですか?」って大学の研究室で聞かれたんだ。
答えは、「逃げないこと」。

逃げたらね、そこには「自由」なんてないからね。
逃げたら、自由ではなく、嫌なことからただ逃げるだけの人生になってしまう。

たとえば「好奇心」。
いろんなものを「見たい」「知りたい」「感じたい」、その気持ちが沸き起こったら素直にそこへ向かっていくことが自由だと思うんだ。

「好奇心」があれば、旅はいつも“寄り道”だよね。
“寄り道”は出会いと発見がいつも待っている。
生きてきてね、生きていくという旅をしてきて、ぼくはいつも“寄り道”ばかり。
そこでね、世界と、海と、森と、いろんな人たちと、ぼくのすべての出会いは“寄り道”の出会いだったんだ。

“スナフキン”の言葉って“ジョン・レノン”の言葉と似てるんだ。
自由に生きるため、決して逃げなかった“ジョン・レノン”。

“スナフキン”の言っているこの言葉を3つ。

●“僕は自分の見たものしか信じない。
けど、この目で見たものはどんなに馬鹿げたものでも信じるよ”

●“長い旅に必要なのは
大きなカバンじゃなく、口ずさめるひとつの歌さ”

●“この世界はいくら考えてもわからない、でも、長く生きることで解ってくることがたくさんあると思う。
君たちも大人になればわかるさ
ある意味で、大人は子どもよりももっと子どもみたいになることがあるんだよ”

ね、レノンの言葉と同じ臭いがするだろ。
自由の臭いがするだろ。

この8月はちばてつや先生と高知へ行って、やっぱりスナフキンみたいな心を持つ海洋堂の宮脇館長に会ってきたんだ。
四万十のへんぴな、へんぴな森と川の大自然の中に館長の建てたホビー館にも行ったよ。
そこの入り口には、ちば先生や、竹宮惠子先生などのデザインしたカッパの大きな像があって、その中にぼくのデザインしたカッパの像もあるんだ。
ピースカッパって言ってね。
ジョン・レノンをモデルに制作した、平和と自由のシンボルカッパなんだ。

四万十で、讃岐で、伊豆で、海と森と川と空の夏の時間…
スナフキンのように、ギター弾いて、ハモニカ吹いて、釣りもしてきた、まだ終わってないけど今年の夏。

スナフキンな2011年の今年も、特別な夏。





トップへ
戻る
次へ