| | | 2013年12月29日 ここ十数年、ずっと心のどこかで探しているもの、求めているものがある。 もう、十数年前に沖縄の「琉球拳法」に惹かれ、書きたいと取材し調べていくうちに、沖縄だけではなく、中国武術の取材で何度も中国を訪れるようになっていった。 中国武術を取材していくと、武術、禅の祖である「菩提達摩」のことがとことん知りたくなった。 とにかくとことん知りたくて、達摩が武術を生み、伝えた崇山少林寺へはもちろん、崇山に登り、達摩が面壁に向かい9年間座禅を組み悟りを開いたという洞窟でも座禅を組んできた。 そんなことから、達摩や武術のこともいくつか書いてきた。 だが自分の中で腰をすえて菩提達摩を書くには、まだ、いくつか行かなければならない「地」があり、そこへ行って調べなくては、自分の中でとことん感じて書くことができない。 つまりは、まだ達摩を知る旅の途中である。 実はその達摩の旅をつづけている中で、少林寺から近い地で育ったひとりの僧、天竺より経典を持ち帰った玄奘のことを知り惹かれていった。(その玄奘というのは、孫悟空に出てくる三蔵法師のモデルである。) 天竺より「禅」を伝えようと中国へやってきた達摩。 仏教の「経典」を求め天竺へわたり、「経典」を中国へ持ち帰った玄奘。 そしてまた、達摩と玄奘を調べていく中で、またまた惹かれる僧と出会うことになる。 空海である。 もちろん空海は、ぼくは中学、高校と空海の生まれ育った、讃岐の善通寺のすぐ近くで育ったわけだから、普通の人たちよりは空海は身近であり、それなりに知っていたつもりである。 だが、達摩、玄奘を調べて行くと、「人は自然であり、宇宙である」と感じるようになり、空海もまさに、そのことを伝えてきた僧だと感じ、見えてくるものがあったわけだ。 宇宙を感じる「生きる」を唱えた空海に、またまた、どんどん惹かれていき、空海のことがもっともっと知りたくなったというわけである。 その空海に関しては、「書く」ということではなく、とにかく知りたくて、空海に見えていたものを知りたくて、ここ数年はとくに、空海の生きた「地」を、四国、京都、高野山、そして中国洛陽の白馬寺、西安の青龍寺と、空海が歩いたであろう地を訪ねて旅をしている。 そんな中で、自分の中で、自然と宇宙を旅した僧をまたひとり知ることになる。 勝道上人。日光を開山した祖である。 勝道上人は空海より40歳ほど年齢が上の山岳仏教に生きた僧で、栃木の山々は、勝道上人の開山した山がほとんどといっていい、山を駆け巡った僧である。 今年に入り、その勝道上人の開山した山を登りはじめたわけだが、すると勝道と空海がどんどんつながっていく。 なんと空海も遠くこの栃木、下野の地で、開山した山があり、開創した寺があり、空海が勝道上人を尊敬していたと思われる足跡が、この下野の地にいくつも残っている。 つまりはそういうことなのかも知れない。 達摩も、玄奘も、空海も、勝道も、旅をすることで同じものを、同じ心を求めていたのではないだろうか。 考えてみれば、武術に惹かれていった根底で感じたのは、自然であり、宇宙だった。 今、達摩、玄奘、空海、勝道を求めて旅をつづけているのも、その自然と宇宙をもっと、もっと知りたいと思っているからだと感じている。 そういうことだ。 海の中で、風の中で、森の中で、山の中で、すべての自然の中で一体と感じる中で生きていきたい。 それが、ここ十数年、ずっと心のどこかで探しているもの、求めているものであり、その道しるべが、達摩であり、玄奘であり、空海であり、勝道だということだと思う。 来年、2014年、ぼくはまた、いくつ自然の中で宇宙を感じる地を知ることになるのだろうか。 楽しみだ。 |
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| | | 愕然とした風景が目の前に広がっていた。 11月20日、ゼミ生のSくんと福島第一原発20キロ圏内の、原則立ち入り禁止の、「帰還困難区域」へ入ってきた。 Sくんが、その「帰還困難区域」にある浪江町に住んでいたこともあり、彼が生まれ育った町が、3.11から2年8ヶ月経ち今どうなっているのか…それを確かめに行った帰還だった。 富岡町へ向かう峠、第一原発が遠く見えたところから、黒い除染で集められた土などの入った袋が道路脇に積み重ねられ、白い防護服の作業員の姿がどんどんと多く見かけるようになってくる。 そして、立ち入り禁止区域の検問で、事前に申請して許可を得た通行許可書を見せて中へ入っていく。 その瞬間、除染の黒い袋は消え、防護服を着た人たちも消え、そこからの風景は、まったく人のいない風景がつづくことになる。 人が消えた風景というものが、どういうものなのか… 人がいない風景とはまったく違う。 人がいるはずの風景から、すべての人が消えてしまったのだ。 Sくんの通っていた高校へ行くと、自転車置き場の自転車が、地震で倒れたままになり、運動部の部室も空いたまま、ユニホームが掛けてあったり、シューズが脱ぎ捨ててあったりと、2年8ヶ月前の、地震の数分前の風景がそのまま残っている。 野球部のスコアーボードには、2011 春 42日 夏 124日と、2011年3月11日からの大会への日にちがあの日で止まったままになっている。 そしてグランドは、2年8ヶ月間の時間を感じさせる草が生い茂り、土がほとんど見えない状態になっていた。 町に入ると、そこも同じである。 いくつもの家が地震で倒壊し、道路をふさいだままになり、壊れた衣料店の中には商品がそのまま月日で色あせた商品がかけられたままの状態で見える。 2年8ヶ月前に突然として人がすべて消えた、そんな風景だ。 浪江町の駅に行くと、駅のホームの下の線路は草が生い茂り、レールが見えない状態になっている。 そして駅前に立つと、目の前にロータリーがあり、そのロータリーを囲むように商店が並んでいる。 賑やかな駅前の喧噪が聞こえていたはずの風景に、まったく音が聞こえてこない。 風がなかったこともあり、風の音もなく、普段は聞こえることはないが、たしかに音をだしているはずの駅前の信号も自動販売機のモーターの音も、ありとあらゆるものが止まっている世界というのは、ここまで音のない世界なのかと思えるほど、静ということではなく、音がまったくないのだ。 Sくんが突然、「ネズミの声が聞こえる」とつぶやく。 目を閉じ、聞き耳をたてると、たしかにネズミの鳴く声と、屋根裏を走るような音が聞こえてくる。 その音の方に目をやると、ロータリーの向こう、100メートル以上ある商店の建物の二階あたりから聞こえてくるのだ。 音がないということは、こういうことなのだ。 海の方へも行ってみた。 すべて津波に流され、倒壊した家、グチャグチャに壊れた車、海から何百メートルの陸地に壊れた船の姿もいくつもある。 あの3.11のときの津波に襲われた町のまま、雑草がそのときの残骸が残ったまま2年8ヶ月の時間の中で生い茂った風景がある。 「なんだよ」 そんな気持ちがわき上がってくる。 復興が遅れているどころじゃない。 2年8ヶ月経って、何も始まってないじゃないか。 そう、何も始まってないんだよ。 Sくんは2年8ヶ月ぶりの風景…、いや、まったく変わってしまった風景を見て、「映画のセットみたいです」とつぶやいた。 2年8ヶ月経って、まだ戻ることのできない町は、実感すらわかないままいつまで過ぎていくというんだ… なぁ、事故を起こしたら、何年も何年も何年も、始まることすらできないのが「原発」だってこと、みんなちゃんとわからなくちゃだよ。 ※「帰還困難区域」からもどり、見てきた風景の位置をGoogle地図で調べようと見てみた。海へ行ったとき、その海沿いに「マリンパークなみえ」という大きな、サッカー場、テニスコート、プラネタリウムなどあった大きなレジャーパークが残骸とともに残っていた。だが、Google地図でマリンパークがあった場所を探しても見つからない…浪江町の一番の自慢だったパークが地図から消えていたのだ。 そう、地図からもこの町は消えていた。 |
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| | | 2013年10月30日 ずいぶん前に学生から聞かれたことがある。 「自由になるにはどうしたらいいのですか」 ぼくはそのとき「逃げないこと」と答えた。 そのことを思い出した。 なぜそのことを思い出したかと言うと、最近Twitterでつぶやいた言葉で、ずいぶんリツイートやお気に入りに入れられたつぶやきがあつたからだ。 “ふと思った。学生見ていて、「やりたいこと」と、「やらなければならないこと」が逆の学生が多いのかもしれない。「やりたいこと」が見えてないままに、「やらなければならないこと」ばかりやっているような…「創る」は、「やりたいこと」からしかはじまらないと思うのだけどね。” そう、「やりたいこと」がなければ自由が見えないのかもしれない。 「やりたいこと」は自分がすべてで、自分発信なのだが、「やらなければならないこと」から始まると、他人から発信された、大学で言えば、「課題をやらなければならない」といったことだ。 じゃぁ、「束縛」から逃れたのが「自由」かといったら、その先がなければ自由じゃない。 20代のころ、ぼくのまわりに、お金がなくなったらアルバイトをしてお金をためて、お金が貯まったら働くのをやめて自分の好きなことをするといった友が何人かいた。 友は「自由に生きたいから」と答えていたのだが、ぼくにはそれが本当の「自由」とは思えなかった。 自由というのは「自分はこれをやろう、やりたい」と、そこで「働く」につながらなければ「逃げ」だと感じた。つまり「やりたいことで生きる」ことができて「自由」だということだと思ったわけだ。 ぼくは今までの日記の中で、「常識」の枠の外の話をずいぶん書いてきているのだが、「常識」というのは「世間の決めごと」、それは「やらなければならないこと」だ。つまりそこには「自由」はないと思っている。 世間は「常識」の外のことをやると理解できないものだから、なかなか認めてもらえることはできない。 またそこから抜き出ていこうとすると、つまりは「出る杭は打たれる」だ。 だがね、タイトルは忘れたが、昔、こういった言葉が書いてあった本があったんだ。 「出る杭は打たれる。出ない杭は腐っていく」 出る杭は、何度も何度も出ようとすればいつか出ることができる可能性はある。 だが出ない杭は必ず腐ってしまう。 そういうことだ。 ここに載せた写真は、最近出会った、鹿沼の加蘇路の山奥、加蘇山神社から、石裂山の登山道を上がっていくと、その山奥に聳え立つ「千本かつら」と言われている、樹齢千年以上のかずらの樹である。 久しぶりに震えるほどの感動を感じた、宇宙を感じた樹だった。 明日、晴れていたらまた会いに行こうと思っている。 |
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| | | 2013年9月30日 この世の中には、すべて「答え」などないと思っている。 だけど、大学で学生など見ていると、「答え」がなければ不安で、「答え」をすぐに求めたがり、「答え」を言う先生に学生は集まっていく。 ここで「答え」というのは、言ってみればマニュアルのことなのだけど、マニュアルがなければ動けない人間が増えているのかもしれないな。 旅のおもしろさは、知らない土地に向かい、そこで何が起こるかわからないから面白いのであり、発見があるのだが、人生もそれとまったく同じものだと思って生きてきたんだ。 学生たちを見ていると「思い通りにいかない」を「苦しい」と感じていているようだけど、ぼくは「思い通りにいかない」を「だから楽しい」と思ってここまでやってきたし、本当にそう思っている。 だって、「思い通りにいくこと」なんて、想定内であって、それは旅で言うと、「何々を見たい」と旅に出て、「何々が見られた」と満足する。 これは旅ではなくて、観光とか見学で、ぼくには、ちっとも面白くないと思うんだけどね。 人というのは、思い通りにいかなければ「工夫」が生まれ、「発見」が必ず生まれるもんだし、そこにとてつもない「体験」が待っていたりするもんなんだ。 たとえば自分の旅で、1980年半ばに中国の瀋陽・撫順というところに行ったことがある。 ホテルも取らずに、香港からビザだけを取って、2〜3日で帰ってくるつもりだったのだが、空港に下りたときから「思い通り」どころか、まったくわからない世界へ来てしまった状態になったのだ。 空港を出るのもいろいろ調べられて大変だったのだが、やっと入国できたと思ったら、空港の前にホテルひとつなく、タクシーだって存在しない。 ホテルひとつ探すのに、走ってくる車を身体を張って止めたりして、(ほとんど自転車で車がほとんどいない)とにかくその日、ホテルのベッドに横になれたとき、たったそれだけで大きな達成感を感じたんだよね。 まぁ、そのあと、帰りの航空券も取ってなかったことから10日以上、中国から出られなくなったのだが、そこで毎日起こったことをここでそれを書き出すと一冊の本になってしまうので、とてもじゃないのだけど書けないが、そのとき見て、聞いて、感じてきたことは、日本に帰ってきて成田からそのフイルムを毎日新聞社に持ち込んだ瞬間、発売寸前のサンデー毎日の巻頭、後ろのグラビアと、すべて差し替えになったほど、だれもまだ見たことのない、知らない中国の特集を組むことになった旅だったということなんだけどね。 「答え」なんかないから、自分で動き、感じて出したものが「自分の答え」となってくるものだし、「思い通りにいかない」から、人はそこで終わるのではなく、降りかかる出来事を「楽しめる」ものだと、だから人生おもしろいということだな。 |
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| | | 2013年8月31日 今日で8月が終わるわけだが、8月の終わりは夏の終わりのような気がして、ズン!と心の奥に寂しさの塊が落ちてくるんだ。 いや、これはもう子供の頃からのことで、日曜が終わり、明日からまた学校だと思う、ズン!とした寂しさの100倍の重みが夏休みの終わりにやってくる、ズン!をこの歳になってもまだ感じているというわけだ。 このズン!の寂しさと重みは何だったのだろうと、何の寂しさだったのだろうかと… もちろん大好きだった「夏」「夏休み」が終わるということで、「夏」「夏休み」というのは、自分の中では「自由」の象徴のようなところがあり、それが終わるということなんだけどね。 その「自由」の象徴と感じていたことは、「非日常」だと思うんだ。 つまり、「日常」へ帰るということは、自分にとっては「不自由」なことだと子供の頃から感じていたんだと思うんだ。 HPのタイトルを「毎日が真夏」と付けたのもそんなことからだったんだ。 旅というのは、ぼくは非日常がつづくことだと思ってる。 一歩先に何がおこるかわからない日々、それが旅だと思ってるんだ。 だからこの夏も2週間、毎日その日の朝に目が覚めてから、その日の気分で西へ向かうか、東へ向かうか、そんな時間を瀬戸内海を中心に旅をしてきた…夏がそうさせた旅をしてきたんだけどね。 そんな旅から帰ってきて、周りから「その歳になって無茶するな」と言われるわけだが、この「無茶」という言葉は褒め言葉だと思っていてね。 「無茶」の反対は「安全」なわけっで、「安全」って、つまりは規制された枠の中での行動ということなんだと思ってる。 事故がおこらないように、檻をつくって、檻の中なら安全だからと、何かみんな檻の中に押し込んで、また押し込まれたみんなも、檻の中の安全を「自由」だと思っているようなそんな気がしててね。 つまりは夏っていうのは、子供の頃から日常から非日常へ旅の始まる「自由」への扉が開く季節だったと感じてるんだ。 そうそう、「無茶をするな」でひとつ思い出したことがある。 ちばてつや先生が、「田中くん、最近はあたらしい何か創ってる?」って聞いてきたとき、「街を創ってます」って答えたんだ。 ちょうど、鹿沼や大田原の行政と、「自然の中でのマンガとコラボしての街づくり」を進めていたよころだったんだけどね。 ちば先生はそれを聞いて、「街を創るって!?」「大丈夫か!?」って、ちょっと声を張り上げて、不安そうな顔を見せて言ったんだ。 ぼくが一瞬、ちば先生の言葉に「今回はちょっと無謀なことだったかな」と不安な顔を見せた瞬間、先生はニコッと笑って、「そう言われることをしなきゃ、新しいことはできないからね」って、実に愉快そうにそう言ったんだ。 ちば先生とそのあと、「大丈夫」なことは人がすでに道を創った道を歩くことで、「大丈夫か!?」と言われても、それでもやったものだけが、新しい道を切り開くパイオニアになれるってそんな話をしたことを思い出したな。 何かね。 夏はワクワクするし、心の底から楽しいって思えるのはそういうことかもしれないな。 檻の外に飛び出して、無茶をする季節… 2013年の夏も終わろうとしている。 |
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