思い立ったら日記 2013



2012年 2011年 2010年 2009年 2008年 2007年 2006年 2005年 2004年〜

トップへ
戻る
前へ
次へ



2013年08月01日
2013年7月31日
 
なぁ、初めて出会ってから25年も経ったんだな。
まだあのときは梅津くんが19だったなんて信じられないよ。
大きな撮影カメラを持って、友人のボクサー、日本チャンピオンになったばかりの高橋直人を撮りながら、「ぼく映画を撮りたいんです」って言っていた、そんな記憶が残ってるよ。
 
直人の取材で会いにに行ったというのに、梅津くんがいっぱいいろんなことを話しかけてきて、最初はぼくの書いた、マンガやノンフィクションのボクシングの作品を読んでくれていて、いっぱいその話をしてくれてたんだよね。
ホント、興奮した口調で作品のことを語ってくれる。
書いた方としてはこんなに嬉しいことなかったよ。
ホント、梅津は褒め上手だったんだよね。
ジムのリングでミットうけてもらったときだって、「田中さんの右、凄いですよ!プロでも通用しますよ!」なんて、ホント、あのときプロなみのパンチがあるなんて信じてしまったんだからな。
 
そんなこともあって梅津くんとかけがえのない友人になっていったんだ。
 
それからいろんな交流があったよね。
ぼくが高橋留美子先生や、平松伸二先生などの友人のマンガ家を連れていけば、梅津くんは、ぼくが映画が大好きだったもんで、梅津くんが助監督やっていた「釣りバカ日誌」の栗山監督と、ご飯や飲みの場をつくってくれたり、その後、梅津くんを弟のように思うようになった編集のMとも、世界チャンピオンや友人のマンガ家たちとよく飲みに行ったよな。
 
そうそう、あのときは笑ったよね。
ほら、「あしたのジョー」の映画のアクション監督に決まったとき。
梅津くんも「あしたのジョー」によって育ってきたこともあって、ホント、ジョーの話は二人でよくして、そのときのタイミングを待っていたのか、それまで、ちばてつや先生と梅津くんとは会ったことがなかったんだよね。
 
それが、「あしたのジョー」のアクションが決まってすぐに、ぼくの携帯電話にかけてきてくたときだったよね。
もう、興奮しながら「決まりました!」って、「あしたのジョー」の子供のころからの思いを語り、そして今回、この映画のアクション監督に決まったことがいかに嬉しいことか、もう、熱く、熱く語ってくれたんだよね。
実はそのとき、ぼくの車には、ちばてつや先生と車に乗っていて、携帯にかかってきた電話はBluetoothでぼくの車のスピーカーから流れるようになってたんだ。
つまり、梅津くんの熱い語りをちば先生がずっと聞いていたってわけだったんだよね。
 
話のくぎりがついたとこで、「実は隣にちば先生いるよ」って梅津くんに言って、ちば先生が車のマイクに向かって、「梅津くんよろしくね」って言ったときの梅津くんの反応。
いやいや、電話の向こうだというのに、完全に固まっている空気が伝わってきたよ。もうそれまでタメで話していた言葉が、メチャクチャ敬語になって、話していることも支離滅裂。
ホント笑ったよ。
でもね、嬉しさもちゃんと伝わってきて、あのときの梅津くんの電話、何か、梅津くんがジョーのアクションやってくれるってメチャクチャ嬉しかったんだ。
 
そのあと、ちば先生ともいろんな話ができるようになって…
 
それから、今回の病気がわかったとき、しずちゃんも連れて、ちば先生のところへやってきた日のことも忘れられないよ。
しずちゃんが、「死んでもいい」という覚悟でリングに上がっているという話を聞きながら、梅津くんもその横で頷いていたよね。
そうだ、ちば先生が「立つんだ梅津!」の色紙を描いてくれたときがあのときだったよね。
 
いろいろホント思い出すよ。
お通夜のあと、ちば先生、高橋留美子先生とも思い出の話、いろいろしたよ。
そしてね、梅津くんは「凄く濃い人生だったよね」って、「人の何倍も生きた人生だったね」って。
だからこんなに友人がたくさんいて、こんなにたくさんのみんなの心にちゃんと残ってるんだって。
 
目で見えるものが真実じゃないんだ。心で見えるもの、心に感じるものが生きている中で一番の真実だとぼくは思ってる。
 
梅津くんはその心の中で生きてるよ。
なぁ、梅津。

2013年07月01日


道元禅師の禅の教えの根本の言葉、「即今(そっこん)」「当処(とうしょ)」「自己」。
それは、「今やらずしていつやるのか。ここでやらなくてどこでやるのか。自分がやらなくてだれがやるのか」という言葉なのだけどね。
実は、この言葉は自分の生き方の根本に置いている言葉でもあるんだ。
 
最近、自分でもどれだけの「やらなければならないこと」を抱えているのか把握できていないのだけど、それでも動くことは止めないようにしている。
 
忙しいからって、後にまわしていたら、「今」の自分の心とは違う気持ちで動くことになってしまうからね。
「今」感じている心は、「今」しかないわけだから、「今」を逃したらそれは「今」を捨てたことになると思うんだ。
 
先日も大田原市の黒羽というところを案内してもらった。
市の町おこしに取り組んでいる社長みずからの運転で、黒羽のまるで50年前にタイムスリップしたような風景の中を案内してもらったんだ。
 
何かね。
心が動いたんだ。
「ここで何かやりたい」という心が動いたんだ。
 
案内から帰ってきて一週間以内に、さっそく、ひとりで黒羽の町を村を、山を、川を、森を、山の中の寺を歩いてきたんだ。
これはものを書くときも同じで、だれかに案内されただけでは、本当に「感じる」を書くことはできない。
だからいつもひとりで、自分の足で「感じる」を踏みしめて歩くんだけれどね。
 
その日は雨で、山奥の禅寺に行っても、紫陽花が咲き乱れる公園に行っても、だれもいない中をひとりで歩いてきたんだ。
いろいろなことを考え、いろいろなことを感じ、心と話がっできる時間。
 
それがあって、「今」さっそく「何をやるか、具体的に」動き出している。
 
忙しいから「今」を捨てたら、「心」がもっと苦しくなることがわかってる。
だから、どんなに忙しくても「即今」なんだよね。
すると、「心」が苦しくないから、ちゃんと山ほどある「やらなければならないこと」をやれているんだと思うんだ。
 
「即今(そっこん)」「当処(とうしょ)」「自己」
ぼくにとって大事な「心」に持つ言葉なんだ。

2013年05月29日
「すべてのことに答えはない」と、ぼくは思っている。
そう思い始めたのは18歳のころだったと思うんだ。
なぜそう思うようになったかというと、そのころメチャクチャ影響をうけた「寺山修司」から学んだからだと思う。
 
寺山修司の「実験」という言葉は、つまりは「日常」の「常識」の外のにあるものを創っていて、それがすべてドキドキと心を解放してくれるものだったんだ。
実験演劇、実験映画、実験写真に実験冊子…
そのころ寺山修司にいっぱい教えてもらった。
つまりは何をやろうと「自分」なんだということ。
寺山修司の言う、「職業・寺山修司」ということなんだ。
 
「自分の生きてることすべて職業.」と考えると、凄く解放された気持ちになったんだ。
マンガとは、イラストとは、音楽とはと考えると、心のどこかで「こういうものだ」と、
常識という「答え」が自分を縛ってしまうんだよね。
「こうあるべき」という、マンガならマンガの物差しがあり、イラストならイラストの物差し、音楽なら音楽の物差しというものがあって、その、今までその世界で「常識」とされてきた物差しで判断されるし、自分も不安だから判断してしまうわけなんだよね。
 
でもね、その物差しを自分だけの物差しにしたら凄く楽なんだ。
あたりまえだけど、人の生き方、生きざまなんて、人間の数だけあって、本来はそのひとりひとりが自分だけの物差しを持っていると思うんだ。
つまりは、同じ生き方なんてないということ。
それは同じ答えなんてないし、同じ答えなんてあったら、みんな同じコピー人間でつまらない世の中になってしまうもんな。
 
なのに世の中の「常識人」たちは、答えを言ってくる。
だからぼくは「答え」を言ってくる人間はまず信じないんだけどね。
 
寺山修司の「実験」は、だれもやったことない、表現したことがないものだから、そこにはまず「答え」なんてないし、物差しもなくて、それは「常識」に縛られない表現だったわけだよね。
 
寺山修司の生き方に、そうかって、18のとき思ったわけなんだ。
だれもやったことのない「枠」の外に「自由」があるってこと。
本当の「自由人」は、最初にその表現をした、だれもやったことのない表現を開拓した人間なんだ。
でもこれが大変なんだよね。
 
人って、とにかく比べるところからはじまるわけだよね。
成功した例を見て、その物差しで判断する。
これじゃ、新しいものなんて生まれないもんな。
 
でも今はおもしろい時代になってると思うよ。
自分の物差しで発信することができる世の中でもあるからね。
 
だから自分の中で、「寺山修司」がムクムクと沸いてきてるんだよね。
 
「家出のすすめ」というのは「家」という「日常にある常識」から解放されるためのすすめだと、勝手にそんな解釈をしながら、この歳になっても、自分の中で「家出のすすめ」な日々なんです。

2013年04月26日


どうも最近キリキリと心が軋んでいる感がある。
 
それは忙しさの中で、やりたいことがいくつもあるのにやれない、そんな思いからだと思っていた。
だが気がついたんだ。
 
鹿沼という宇都宮のとなりの市に、「ネコヤド」という、宿場町だった場所の路地で新しい動きがはじまっている。
路地には「饗茶庵」という、きっと一度行ったらだれもがその空間に魅せられてしまう、心の風の感じるcafeを中心に、創作料理の店があり、路地にはアヒル・カモ・烏骨鶏など7羽の鳥たちが我が物顔で歩いている。
路地でライブがはじまり、創作のアクセサリーが売られたりもする。
 
その空間に魅せられるように週に何度か大学を抜け出し「ネコヤド」に行くと、心のキリキリ感が消えるのだ。
 
ひとり似たような感覚を持っているゼミ生がいて、今、その空間のポスターを、他にもいろいろと鹿沼市の行政とも手を組んでおもしろいものを制作している。
 
2日前、そのネコヤドの饗茶庵で、ベトナム珈琲を飲みながら話しているとき、そのゼミ生も同じキリキリを感じていると言うのだ。
大学は楽しいし、自分のゼミは僕自身も楽しんでやっているのだが、大学にいるとキリキリしてしまう。
その原因はなんだろう…
ふと、饗茶庵のテーブルに置かれたメニーに目がいったときだ。
 
「あぁ」
そのキリキリの原因が一瞬にしてわかった気がした。
そのメニューは、いかにもメニューといったものでなく、出席簿のような、遊び心のある手つくりで、そのメニューを立てているメニュー立ては、扉のノブを木に打ち付けての手つくりだ。それはたしかに倒れなくちゃんと置ける形で、メニュー立ての役割を果たしている。
 
つまり型にはまってないということだ。
今、きっと世の中は、大学までも、「こうでなければいけない」という「常識」に縛られているんだと思う。
メニュー立てが必要だと、メニュー立てを買ってくる、そう、だいたいの人はメニュー立てをドアのノブで創ろうとなど考えない。
メニュー立ては、あくまでメニュー立てで、店でメニュー立てとして売っているものがあくまでメニュー立てだと思っている。
そう、常識の外で創ろうと考えないのだ。
 
常識というヤツは、自分の自由を縛ってるって、そうだれもが感じなくなってしまっている世の中かもしれない。
「こうあるべき」が正しく、それが「答え」とだれもが思っている。
 
ぼくはこの世に「答え」などないと、そう言いつづけているのだが、だれもが不安から「答え」を求め、「答え」を言われることで「安心」している世の中かもしれない。
大学でも同じものを感じている。
「答え」などないのに、「答え」を求めて聞いてくる。
だから自分の話しをする。
「答え」ではないが、「生きてきた」話しではある。
その「生きてきた」話しがつながって、「今」がある話しをする。
答えではなく、自分の意思と判断で人は人生をつくる話しだ。
その意思と判断を縛ることなく生きるのが「自由」だと思っている。
そう、この考えだって、それはぼくの生き方であって「答え」ではない。
 
そんな話しをゼミ生としながら、結局「寺山修司」の話しになった。
寺山修司の職業は「寺山修司」である。
寺山修司が演出をしても、映画を撮っても、写真を撮っても、小説を書いても、短歌を書いてもすべて「寺山修司」以外の職業ではない。
 
キリキリの原因が少しわかったような気がする。
つまりは「自分」という生き方しかない。
そういうことなのだ。

2013年03月28日
今、仕事の合間に仕事場の資料室を整理している。
 
資料室は10畳ほどの広さの部屋だが、足の踏み場どころか、空間までもビッシリで、ここ数年は見ないふりで、資料室というよりは物置状態になっていた部屋なのだ。
だが、最近資料室に入ってみると、なんとスチール製の本棚が傾いているではないか…
これはヤバイと、とにかくこの資料室のいらないものを捨てることに決めたのだ。
 
まずは本から捨て始めたのだが、もう40年以上前からのいろいろな本が出てくる。
音楽をやっていた時代の自分のことが紹介された本から、自分の描いた劇画や、イラスト、ノンフィクション、エッセイ、コラムの載った雑誌と単行本。
 
「あっ、こんなところにあったのか」「そうか、こんな仕事もしたんだっけ」
整理しはじめると、埋もれていたものが次々と顔を出してくる。
何かここには自分の歴史があるようで、10代、20代のころの、その原稿を書いたときの自分のことが、捨てるための本を手に取るたびに思い出されてくるんだ。
 
30年以上も前に買った資料も出てくる。
30年前はネットで資料探しなどないわけだから、よく仕事をやらせてもらっていた集英社や小学館などがある、一ッ橋に出版社で打ち合わせをしたあとに、その一ッ橋にある神田の古本屋街や、20代のころ住んでいた早稲田の古本屋街で必死になって打ち合わせででてきた資料を探し、見つけて買ってきた本の数々も莫大な量だ。
だが今は、ネットで検索すればだいたいの資料は出てくるんだよね。
あの時代は、資料探しだけでも何日もかけ探し回り、それから取材と、机の前だけじゃなく、何日も歩いて、ホント体力勝負で物書きやっていたんだったな。
 
そういえばこんなことがあった。
ベンツの資料が必要で、車の雑誌を探していたときのことだ。
100円で買ったそのときの資料の間から5万円が出て来たことがある。
きっと、へそくりか何かを本に挟んでおいて、忘れて廃品回収か何かに出したのだろう。
実は当時、とてつもなく貧乏だったので、これは間違いなく神の恵みなのだと、もう時効だから言うが、しっかりと生活費として使わせてもらったんだった。
あの5万円はホント助かったな。
 
まぁ、そんなことも思い出しながら、本の回収日にゴミとして、整理しては紐でまとめ、山ほどの本を出していたのだが、ある日、まだまだ残っている整理仕掛けている本を、打ち合わせに来た編集が見て、「これ捨てるのですか」と、少し慌てたそぶりで言ってきたのだ。
「そうですよ」と、そういうと、編集が「この写真集、ネットで5万以上の値がついてるし、この何百とある写真や、GORO、写真時代、写楽、激写、週プレ、平凡パンチなどの雑誌だって、そうとうな値段がついてるものがいくつもありますよ」と、信じられないといった顔で言ってくるのだ。
ぼくは「えぇ」である。
「このゴミ、お金になるの」
「間違いなく数十万になります」「うまくいくと100万以上になります」
「100万以上…」
というわけで、実はその編集の一言から、まだ、三分の一ほどの、編集に指摘された本が捨てられないままでいる。
(編集が言うにはすでに捨てた本も、合わせて十万以上の値打ちがあったらしい)
 
それでも仕事場の整理はつづけている。
今日はまず仕事場にある、使わなくなったステレオ2台、ステレオコンポ、それにスピーカーなどに有料のシールを貼って、資源環境センターにもって行き処分してもらった。
これでカセットテープを聴けるものがなくなったので、数千はあるカセットテープも処分することにして、今日は昼からカセットテープを整理していたんだ。
ゴミ袋6個分のテープの山である。
何せテープは、40年前からあまり捨てたといった記憶がないものでゴミ袋を前にして、その量に自分でも驚いている。
 
もちろん、このテープにも、そして捨ててきたステレオたちにも思い出がある。
 
音楽をやっていたころの、曲をつくって、デモとして吹き込んだテープ。
自分のライブのときのテープ。
物書きをはじめてからの、いろいろ取材させてもらったスポーツ選手、著名人たちのインタビューテープもいくつも出て来た。
一番多いのが音楽テープだ。
何日も徹夜で、眠気を覚ませるためにヘッドフォンで爆音たてて聞いていた“Zeppelin”。
大好きだった“Neil Young”、吉田拓郎、井上陽水、山下達郎、浜田省吾…
よくもまぁ、これだけ音楽テープを持っていたと思われる量が出てくる、出てくる。
ウォークマンが売り出されてからは、部屋の中だけじゃなく、いつも、どこでも音楽を聴いていたんだよね。
こうやって考えると、どの思い出にも音楽があったんだ。
 
そして、捨てることで見つけ、記憶から消えていたいくつもの忘れていた場面を思い出してるよ。
忘れていたってことは、存在してなかったことだけど、捨てることでちゃんと存在して思い出させてくれたいくつもの場面がそこにあったんだよね。
 
何かがんばってたなぁって、今日、捨ててきたステレオはちょっとお金が入り出したときカミさんが奮発して買ったんだったなぁって…
そのステレオで音楽聴きながら、徹夜していくつも連載をこなしてきたんだよなって。
 
そんな片付けをしていると、ふと、陽水の「夢の中へ」が頭の中に流れてきた。
“探しものは何ですか〜見つけにくいものですか〜〜夢の中へ、夢の中へ、行ってみたいと思いませんか〜”



トップへ
戻る
前へ
次へ