| | | 2016年7月31日 あいかわらず忙しい日々がつづいている。 忙しいということは、やらなければならないことがそれだけあるということだ。 すると意識は「時間があるかないか」ではなく、その時間を「うまく使えるか、つかえないか」という考えに変わって行く。 時間がないからできないではなく、その時間の中でどうやりとげるかということだ。 そうすると、とてつもない量の仕事が〆切内にどうにかなっていく。 マルコム・グラッドウェルの“天才!成功する人々の法則”という本がある。 モーツァルトやビートルズなどのアーティストや、 イチローなどスポーツ選手、マイクロソフトのビル・ゲイツなども、その分野で活躍するための勉強・練習にかけた時間は一万時間がひとつの目安となると書かれている。 一万時間は、一日三時間、一週間に二十時間ずつ十年間つづけないと達成できない。 ここにイチローの言葉がある。 「そりゃ、僕だって勉強や野球の練習は嫌いですよ。誰だってそうじゃないですか。つらいし、大抵はつまらないことの繰り返し。でも、僕は子供のころから、目標を持って努力するのが好きなんです。だってその努力が結果として出るのはうれしいじゃないですか」 そう、この歳になって感じているのは、「自分はどれぐらい凝縮した時間の中で生きられているか」だ。 濃い時間を生きたいという思い。 ぼくは学生によく言う言葉がある。 「この世に“ぜったい”はない。だがただひとつだけ“ぜったい”がある。それは人は必ず死ぬということだ」 生きているものは限られた時間の中で生きている。 その時間をどう使うかが、人生であり、生きざまだと思っている。 生きるということをシンプルに考えたとき、「人は死ぬまで成長したい」というのが、生きているということの思いではないだろうか。 イチローの「目標を持って努力するのが好きなんです。だってその努力が結果として出るのはうれしいじゃないですか」という言葉、まさにそういうことのような気がしている。 ひとの喜びの大きさは、もがいてもがいて、苦しんで、苦しんで、その苦痛から逃げないで手にした目的は、その苦しみの濃さだけ、喜びの濃さがまちがいなくある。 簡単に手にした喜びは、簡単な薄さの喜びでしかない。 人の人生はどれだけの年月を長く生きたことではない。 どれだけ「濃い時間」を生きられたかだと思っている。 だれもが今、この瞬間がいちばん人生で歳をとっている。 今、こうしてこの日記を書いている「今」の自分に問いかける。 「自分の人生で一番長く生きている“今”は濃い時間を生きているのか」 「Yes!」 |
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| | | 2016年6月28日 「エクスペリエンス」 という言葉が今の時代のキーワードとなっている。
「エクスペリエンス」とは、「だれも経験したことのない体験」として今、使われている言葉だ。 ioT、AI、VRによって、まったく今まで想像でしかなかったことやモノが現実に経験、体験できる世界が生まれてきている。 ここですこし考えてほしい。 世の中がデジタル化されることによって、ほとんどの人が「冷たい」といった印象をもつらしい。 機械的=冷たいという印象をどうもみんな持っているようだ。 アナログは人によって生み出すものだから、「心」があると、デジタルを使えない人はまず言ってくる。 先日も大学に、デジタルには「暖かみ」がないといったことを自信満々で言ってきた、絵を仕事とする企業の人がやってきた。 まずわからぬことは否定から入る典型的な人だったので、まず相手にするだけ時間の無駄だと、その人の前からは「話すことはないですね」と、すぐに席を立ってきた。 ぼくはまったく逆で考えている。 今、大学が宇都宮にあることから、すこしでも時間があれば自然の中へ行き、山や川、森のなかへ向かっている。 昨日も栃木と茨城、福島の県境、3県にまたがる八溝山へ行ってきた。 大田原市に頼まれている仕事としての制作のためである。 神の山のもと、自然の中で人々が生きている風景。 その風景を、風の音、森の匂い、水の流をデジタルを使った表現で生み出したいと、そのためにもう何度もこの地区を訪れている。 何度もその風景の中で感じなければ、その音、匂い、流れを伝えることはできない。 「心」を伝えたいと、デジタルで今までに無かったエクスペリエンスを生むことができるからこそ、「心」を伝えたいと制作している。 最近、大好きな大自然のある山の木が切り倒された。 樹齢数百年の樹がいくつも道路開発のために倒されてしまったのだ。 また自然を元の形にしようとしたら、数百年かかるということをわかっているのだろうか。 自然を壊したら、また創ることなどまずできないということがわかっているのだろうか。 高度成長の時代、開発というのは自然破壊だった。 海も空も山も森も「開発」という名のもと自然は壊されつづけてきた。 だがデジタルは自然と共有できる。 壊さないで、その中に存在させることができる。 森と山の中ならば、その大自然の中に、何も破壊することなく、キャラクターたちを存在させることができる。 たとえば、ムーミン谷を大自然の中に創ることができるのだ。 その森へ行けば、3Dホログラムによって、ムーミンが自然の中で暮らし、AIによって、会話だってキャラたちとできる。 川で釣りをしているスナフキンと、森の大自然の中で哲学について語りあうことができるのだ。 自然を壊すのではなく、自然とともに新しい生き方を考えていく。 スティーブン・ジョブズが「禅」の考えのもと、シンプルなiPod、iPhone、iPadを生み出し、エクスペリエンスで世界を違うものにした。 便利というのは、いくつもの機能のボタンをつくることではなく、便利なものほどシンプルであるという考え。 デジタルは機械的ではない。 自然と共有するためを考える機能。 ぼくはそう考えている。 それがぼくの目指す、デジタルのエクスペリエンス。 |
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| | | 2016年5月31日 先日TVを見ていて、世界的なパティシエの小山進さんの言葉に心が止まった。 「僕は夢より目標」 「夢という守られてる後ろに隠れて、具体的に動かないことの方がダメ」 「夢があるから、その夢に向かって今日、何をしたか」 まさにその通りだ。 学生を見ていて「夢」を語るが、その夢のために何をしているかと言えば、さしたることをやっていないことが多い。 たとえば作家になることが「夢」だとしよう。 もちろん夢を語るということは、プロとして作家になりたいということだ。 プロとはどういうことなのか? ぼくは常々「だれにでもできることを、だれにでもできないだけやる」と語っている。 それは「だれにでもできること」には、人はまず金を払うわけがない。 自分ができないことだからこそ、人は金を払ってくれるわけだ。 だから「だれにでもできないだけやる」わけだ。 作家ならば、それは「量」かもしれないし、「取材力」かもしれない。 「取材力」というのは、興味のあるものに対してすべて動くという力。 それが戦場だとしても、チョモランマの頂上だとしても、宇宙だとしてもだ。 そう、つまりは「だれにでもできないだけやる」ということは、「命がけで動く」ということなのだ。 「命をかけてて動く」からこそ、人はそのことに惹かれ、お金を払ってでも見たいと、読みたいと、感じたいと思ってくれる。 夢を追う側から言えば、「夢」というのは、「命をかけれる」場所だから、「夢」と語れるものだと思っている。 作家が作品を書くということは、その作品は「生きざま」だということだ。 動かない生きざまなんて何の魅力もない。 「なぁ」とぼくは学生に言葉をかける。 「夢があるんだ」と言えば、「夢があることは素晴らしいことだ」とまわりは声をかけてきてくれる。 まわりが声をかけてくれることに、ちっとも動かないくせに、「オレには、私には夢があるんだ」と安心していないか? 「夢がある」と、その言葉を言い分けにしていないか? 「夢」というのはさ、動かなければ、本気で、命がけで動かなければ、そんなものは「夢」なんかじゃないということだ。 「だれにでもできることを、だれにでもできないだけやる」 「夢」を語るなら、まずそこから始めなきゃな。 |
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| | | 2016年4月30日 いろいろなことが動き始めている。 この年齢になって、スケジュールが分刻みでこなす日々がつづき、つねに20以上の仕事を抱えている状態だ。 睡眠時間も3時間あるかないかの毎日。 それでもとにかく前に進みたいと、全力で走っている。 横になるとき、「寝られる」という幸せ感ではなく、「あぁ、時間がもったいない」とそんな風に感じてしまう。 「ちばてつや文星MANGAイノベーション研究所」を4月からスタートさせた。 マンガをioT、そしてAIと結びつけることで、マンガはあらゆる分野に入り込め、子どものころ夢見ていた、大好きなマンガのキャラたちとだって、マンガを読みながらコミュニケーションがとれる。 そんなことが、今の研究からすでに開発できるところまできている。 今、町、市、県、国といった行政、ITの世界のトップの企業とも話ができている。 そこでのことは、トップシークレットな話なので、NDA(秘密保持契約)のこともあって、こういったところでは書けないことばかりだが、今、創造していることは世界が驚くことだと思っている。 これを実現させるため、今が正念場だということもわかっている。 きっと今のぼくは、間違いなく人の3倍以上動いていると思っている。 そのことによって、夢が動くというのを、ぼくは10代、20代で見てきている。 たとえば、拳を骨折してリングに上がれなくなっていたボクサー、浜田剛史と出会い、彼レを2年間、ほぼ毎日追いかけた。 次ぎの試合ができるかどうかわからないボクサーなど、メディアはどこも取材などすることはない。 そんな中で、ボクシングの為だけに生きていた浜田の生き方に惹かれるように追いかけ続けた。 朝、起きて目を覚ますのはボクシングのため。食事を摂るのはボクシングのために身体に栄養を与える。 トレーニングは人の3倍以上の凝縮された濃い時間の中で、とても人にはできない激しい鍛錬を行う。 そして寝るのも、ボクシングをやるために身体を休める。 糞尿までもボクシングのための体重維持と考えて生きていた。 浜田剛史はそんな男だった。 そして浜田は、ぼくが見続けて2年後に世界チャンピオンの夢を手にいれた。 ぼくは生き方を浜田に教わった。 いや、浜田だけじゃない。 甲子園で優勝した、天理高校の選手、池田高校の選手といった高校生からも、追いかけながら取材してきた中で生き方を教えてもらった。 サッカー選手、武道家、格闘家… 頂点を極めていったアスリートたちの共通点は、「今、そのためだけに必死に生きる」。 それも人の3倍以上の凝縮された濃い時間の中で生きる。 それだけのような気がする。 今の自分はと問われれば、「今を、人の3倍以上の凝縮された濃い時間の中で、そのためだけに必死に生きています」 そうハッキリと答えられる。 |
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| | | 大田原市から、自然に囲まれた八溝山地を知ってもらうためのマンガ制作の依頼があり、八溝の地域に何度か足を運んでいる。 里山があり、棚田があり、森があり、ただただ自然が広がった喉かな空気に包まれた風景のある場所だ。 その中心に、雲巌寺というお寺がある。 永平寺(福井県)、聖福寺(福岡県)、興国寺(和歌山県)とともに禅宗の四大道場とされる、「禅」の寺だ。 雲巌寺は大好きな寺で、仕事とは関係なく何度も訪れたことがある。 今回の仕事の依頼が来たとき、この雲巌寺を軸に作品を創ってみたいと、つまり「禅」を軸にこの地域を見せられないかと考えたわけだ。 先日、雲巌寺の原宗明老師にどうしても話が聞きたくて会いに行ってきた。 いい話をたくさん聞かせてもらったが、その話は作品の中で書きたいので、まだこの日記では吐き出さないでおく。 あといくつか取材と八溝山に登るなど、そこで老師の言葉が熟さなければならない。 その前に吐き出すと、心に溜まっている「熱」が冷めていくことは、今までの経験からわかっているので、「禅」の話は作品の中ということで。 オイオイ、「禅」のことを書かないのだったらこの日記の冒頭は何だったのかと思うかもしれないが、取材とは別に、老師と話した中で「知恵」の話が出てきた。 今は「知恵」を育てなければならない時代だと、そんな話に老師となったわけだ。 その「知恵」のことを、老師との話をしたこともあり、今回の日記で書いてみたくなったというわけだ。 「知恵」というのは、ぼくは「生きる」ためのものだと思っている。 「知識」ももちろん必要だ。 ぼくの立場からいうと、大学というところは「知識」を得るところかもしれない。 だが、その知識を積み重ね、理解していく過程で「知恵」にならなければならない。 それがなければ、「生きるための知識」にはならないと思っている。 最近、2020年のオリンピックに向けて建設する、国立競技場の設計に聖火台がないということが問題になっていたが、そのニュースを聞いたとき、問題を発表をする前に、なぜ競技場に関わっている人たちの中から、「知恵」が出なかったのか不思議でならない。 設計で聖火台を忘れていたのなら、「知恵」を絞ればいくらだって、全世界を驚かせる聖火台を創ることができる。 ぼくならこう考える。 世界中が競技場に聖火台がないと騒いでいるというのは、最高の舞台、つまりサプライズできるおいしい状態になっているではないか。 聖火台がないのに、オリンピックのシンボルである聖火をどうするんだというのは、まずだれもが抱くことである。 逆を言えば、聖火台があり、その聖火台に火が灯るという演出では、どんな派手なことをやったとしても「常識」から抜け出してはいない。 ここで「知恵」である。 だれもが想像しない「常識」の外で、世界中を驚かせるにはどうしたらいいか。 聖火台がないと騒いでいる時点で、まず「常識」の外のことになっている。 そこで聖火を灯せば、世界中の人たちが間違いなく驚くことになる。 つまり、みんなの「常識」を超えることができるのだ。 それも、そこでだれも想像できない「常識外」の大きなスケールを抱いたとなれば、こんな愉快なことはない。 そこでこう考えてみた。 競技場全体を聖火台にするという発想だ。 聖火ランナーが競技場の真ん中で聖火を掲げた瞬間、競技場全体に火が灯るという発想だ。 もちろん本物の火ではない。 本物の火は隠しておいた旧国立競技場の聖火台を使いたいのならば、そこに本物の火をつなげるシステムを創ればいいだけのことだ。 リアルがあり、バーチャルがある。 メインは国立競技場を聖火台にすることである。 3D投影システムを使えば、今のデジタル技術ならば可能になるはずだ。 競技場の大スクリーンに、空中から撮った、競技場自体が聖火台になった映像を映し、その映像は世界に配信されている。 聖火台となった競技場の中では、やはり3D投影システムを使い、丁度、バーチャルの炎の内側で、日本のマンガのキャラたちが、オリンピックの歴史を演出するといったのはどうだろう。 つねにオリンピックの聖火が競技場で見えていなければならないのならば、競技が始まれば、リアルな競技場の外に配置された旧国立競技場の聖火の映像を、リアルライムで競技場の空中に3D投影システムで、本当に空中に聖火台が浮かんでいるように配置すればいい。 そういった考えも、つまりは「知恵」だということだ。 今、時代が大きく変わっていっている。 デジタルによって、ioT、AIなど、ぼくたちが想像でしかなかった世界が現実にできる時代になっている。 その技術は便利なものだが、どう使うかは「知恵」の勝負になるはずだ。 つまりは、知識を積み重ね、理解していく過程で「知恵」にならなければならない。 せっかく「知恵」の時代になっているというのに、ぼくにはどうも世の中は「知恵」の人より、「知識」だけの常識人で溢れているように感じている。 |
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